ダロウェイ夫人

ダロウェイ夫人
ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ
丹治愛
集英社
2007年8月25日
29件の記録
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2025年8月14日
    「それでも一日の終わりにはつぎの一日がつづいてゆく。水曜、木曜、金曜、土曜と。朝になってめざめ、空を見、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会う。それから不意にピーターが訪ねてくる。それからあのばらの花。それでじゅうぶん。こういった一日の出来事のあとでは、死が、こういったことに終わりがあるなんて、とても信じられなくなる!どれほどわたしがこういったもののいっさいを愛しているか、世界中の誰にもわからないだろう。どんなに一瞬一瞬を愛しているか……」p218 舞台は、第一次世界大戦の爪痕残るロンドン。保守党議員の夫をもつダロウェイ夫人(クラリッサ)と、帰還兵でシェル・ショックを患う青年セプティマスという対照的なふたりと、その元恋人や友人、妻や夫たちそれぞれの意識へと移り変わりながら、ある一日を描く。 全体通してとんでもなく大すきな作品だけど、なによりもウルフの透徹した描写がたまらなくよかった。時に鋭く突き抜け、時に鮮やかで瑞々しい。近くから遠く、そして深く時間を浮遊していくシーンの数々。わたしは誰でもないけど誰でもあるような、視点が上に下に横に奥にあらゆるところへなめらかにすべるように移ってゆく、この時を駆けるふしぎな浮遊感に夢中になり、そういった文章に出会うたびに大喜びしていた。 過ぎ去る一日一日を生活の中に見失いながらも、時折失ったものを見いだす瞬間がある。たとえば空を見、すべてが同じ「時」を共有していると感じる瞬間。瞬間を憎み、瞬間を愛する。目の前にあるこれ、ここ、いま、から何十年も前の記憶まで。そのすべてのなかに愛するものがある。 クラリッサは、人生への無力感、生き抜くことへの恐怖を常に感じながらも、「もはや恐れるな」となんどもおもう。変わりゆくこと、変わらないままのこと。人生を喜劇として捉える力。他人から見える自分はあまりにも断片的であると気づくこと。妻でありかつては娘であり、ほんとうは何者でもなく、だけど世界はわたしのものだと受け入れられる、彼女のしなやかな強さに憧れる。 これはウルフをもっともっと読まねば!となり、あれこれ順番に読んでいて、とてもたのしい。『ダロウェイ夫人』は来年の6月にまた読みたいし、再来年もその次も読みつづけていきたい。 そしてそして、嬉しいタイミングで文學界がダロウェイ夫人特集!(じゅえさんいつも教えてくれてありがとう……)さっそく読みます。
    ダロウェイ夫人
  • jyue
    jyue
    @jyue
    2025年8月8日
    8月某日(木) 日中落ち込むことがあって、とどめに言われたセリフがあたまのなかでリフレインする。遅めのお昼を食べるのに家を出て、ふとポストを見ると『ダロウェイ夫人』が届いていた。若い頃は嫌なことがあってもどこかで意識して「次がんばろう」って気持ちになろうとしていたけれど、最近は「ま、いっか。忘れよ。ダロウェイ夫人も届いたし」みたいな気持ちになる。こっちのほうが疲れなくて好きな思考回路。たまこさんと阿久津さんが『ダロウェイ夫人』を読んでる日々を眺めていて、絶対に読むぞ、すぐ読めなくても買って積むぞ…と思っていたところに、ちょうど文學界が特集を組んでくれたので即購入。雨のおかげで涼しくなった束の間に読むんだ。
    ダロウェイ夫人
  • ゆい奈
    ゆい奈
    @tu1_book
    2025年8月5日
    文學界9月号の特集が『ダロウェイ夫人』らしく、柿内さんのお名前があり、ありゃ………これは読むべきなのでは………となっているところ。群像にも柿内さんの名前があったんだけど、これはもう売れっ子なのでは。ということで文芸誌を買う理由ができてしまったので買う。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月21日
    フライドポテトときゅうりのおつまみと焼き鳥を頼んで届いたビールをひと口飲んで本を開くと「世の中にはいろんな悪党がいるだろうが、列車で少女の脳天をたたきつぶした罪で縛り首になる悪党も、全体としてみれば、ヒュー・ウィットブレッドとあいつの親切ごかしほどの害をなすわけではないんだ」とベルンハルトみたいなことが書かれていたので朗らかな気持ちになった。 ピーターがパーティを見ている。クラリッサを見ている。フライドポテトはバターソースというもので、バターソースは僕は好ましくない。ひと口ひと口、バターが垂れないか気をつけなければいけない。これがマヨネーズやケチャップだったらこうはならない。ノールックでOKだ。バターソースだとそうはならない。味も僕はマヨネーズやケチャップが好きだ。これは残念だ。しかし小説は面白くてダロウェイ夫人はパーティの心配を案じたり成功を信じたりしている。ブラドショー夫妻のことが気に食わない。「ああ! わたしのパーティのまっただなかに死が入りこんできた」と彼女は考える。それから小部屋に入っていった。 p.328,329 わたしたち(今日一日、たえずブアトンのこと、ピーターのこと、サリーのことを思い出していた)、わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがある―おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分がとり残されるのを感じている―だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。 ぐんぐん加速するというかぎゅっとしていく。緊迫感が高じていく。フライドポテトは終わって、きゅうりはつまんでもつまんでも減らないように見えて助かる。「両親から両手でうけたこの人生という贈り物を最後まで生き抜くことが、心穏やかに歩きとおすことができない」という恐怖心。リチャードがいなければ自分は破滅していただろう、とクラリッサは考える。チーズつくねと煮卵を追加する。「そして空は。厳かな空だろう、と彼女は予想していた」。ビールは3杯目。繰り返されるあの言葉。「もはや恐れるな、灼熱の太陽を」。 p.332,333 どういうわけか自分が彼に似ている気がする―自殺をしたその青年に。彼がそうしたことをうれしく思う。生命を投げだしてしまったことをうれしく思う。時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた。だけどもどらなければ。人びとのもとへ集わなければ。サリーとピーターを見つけなければ。彼女は小部屋から出ていった。 しかしクラリッサはなかなか姿を見せず、僕は川に入ったウルフのことを思い、ウルフの日記を読んでいた元代々木の部屋を思い、彼がそうしたことをうれしく思う、生命を投げだしてしまったことをうれしく思う、彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた、という言葉を思い、その言葉の静けさと強さを思い、ピーターとサリーが話すのを見つめ、ここにはいないクラリッサのことをやはり何度も思い、若いクラリッサ、年を経たクラリッサ、そこに流れた年月、それらの全体を思い、そして小説が終わるのを見届けた。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月21日
    そろそろ終わりそうというところで、どこかでビールとフライドポテトで読書の時間をしたくなっていろいろ検討した結果、鳥貴族に行って読んだ。にぎやかだけどイヤホンを必要に感じないにぎやかさで思った以上に読みやすく、息を詰めて最後まで読んだ。最後緊張感すごかった。めちゃくちゃおもしろかったな。読めてよかった。それにしても鳥貴族読書が思った以上に快適で、またビールとフライドポテトで読書をやりたくなったら行きそう。でもバターソースじゃなくてケチャップがいいな。ケチャップくださいと言えばくれるのかな。くれるといいな。
    ダロウェイ夫人
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月19日
    「自分があらゆる場所に存在している感じがするの」とピーターにクラリッサ。 p.271 「ここ、ここ、ここ」にいるだけじゃなく(と彼女は座席の背をたたいた)、あらゆる場所に。シャフツベリ・アヴェニューを走りながら彼女は大きく手を振った。わたしはあれ全部なのよ。だからわたしなり誰かなりを知るためにはその人を完成させている人たちを、そしてその人たちを完成させている場所も、見つけださなければならないのよ。一度も話しかけたこともない人、たとえば通りを歩いている女やレジに立っている男にも、わたしは奇妙な親近感を感じる。木々や納屋にさえ。そして結局それはひとつの超越的な理論になってゆくのだ。その理論のうえに立って、そしてそこには死の恐怖も働いていたが、彼女は(その懐疑的傾向にもかかわらず)こう信じていた、あるいは信じていると言っていた。外なる現象としてのわれわれ、われわれの目に見える部分は、それとは別の目に見えない、広々と広がっている部分とくらべればひじょうにはかないのであり、その目に見えない部分はわれわれの死後も残り、どういうかたちでかあれやこれやの人にむすびついたり、ある場所にとりついて生きつづける、と……たぶん、そうかもしれない。 これはもう、この作品そのものだ、この小説が『ダロウェイ夫人』と名付けられていることをこれ以上なく説明するところで、うわ、すごい箇所だ、と思いながら熱心に読んだ。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月16日
    p.261 「しなければ」「しなければ」、だがどうして「しなければ」なのか? ブラドショーはぼくにたいしてどんな権限をもっているというのか? 「なんの権利があってぼくに『しなければ』と言うのだ?」と彼は詰問するように言った。 「あなたが自殺するなんて言うからよ」とレイツィアは言った。(いまだったらセプティマスにはなんでも話せる、ありがたいことに。) ひとときの明るい空気が流れて、しかしよく見てみればそれは張り詰めていて、ああ、と僕は深い溜め息をこぼした。ぎゅっと目をつむった。なんでこんなことにならなければいけないのか、と私は考えた。それから健やかに寝た。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月14日
    「この喧騒には自覚がない」と寝る前、『ダロウェイ夫人』を開くと書かれていた。「人の運命や宿命に対する認識もない。しかしそのためにかえって、死にゆく人の顔に意識の最後の断片を求めて目がかすむまで看護をつづけてきた者には、それは慰めとなる」とあった。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月10日
    夜、先週の日記の推敲をやっとしていると『ダロウェイ夫人』の原文のことを思い出したので調べた。すると「Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself.」とあって驚いた。集英社の訳が原文に忠実だった。そのまま1ページ読んで照らし合わせていくと、美しいなあ、と感じる。原文も訳文も美しく感じる。原文の英語は、わからないが、小声という感じがする。小さな声の言葉がぽとりぽとりと丁寧に落とされていく感じがある。「もはや恐れるな」は「Fear no more」だった。「それだけのこと」は「That is all」だった。「That is all. Fear no more, says the heart. Fear no more, says the heart, committing its burden to some sea, which sighs collectively for all sorrows, and renews, begins, collects, lets fall.」だった。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月9日
    昼食のあとに原稿を書く手伝いをしたヒューとリチャードが帰っていってミリセント・ブルートンが眠気を感じていた。 p.201 そのふたりは彼女と一本の細い糸でつながりながらも(昼食をともにしたのだから)どんどんと離れていった。彼らがロンドンを歩いていくにつれて糸はどんどん伸び、どんどん細くなってゆく。昼食をともにした友人同士は、その後も細い糸によってつながっているのだが、その糸は(彼女がまどろんでいるあいだに)時刻を告げたり教会の礼拝の時を知らせる鐘の音に霞んでゆく。ちょうど一本の蜘蛛の糸が、落ちてきた雨の滴の重みでだらりと垂れ下がってゆくように。そのようにして彼女は眠りこんだ。 そのようにして彼女は眠りこんだ! うっとり。騒々しかった頭が一気に静かになるのを感じる。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年7月6日
    ピーター・ウォルシュクラリッサとの思い出を思い出したりしながら長く過ごしたリージェント公園をが出ると駅の近くで「イー アム ファー アム ソウ フー スイー トゥー イーム ウー」と歌う老女がいてレイツィア・ウォレン・スミスとセプティマスが引き取ってふたりの物語は僕は読んでいて本当に辛くて苦しい。セプティマスが元気になってレイツィアが希望を取り戻すことを心から望んでいる。この小説は一日を描いたものだそうだからそれを見届けることはできないのかと思うともう辛い。ヴァージニア・ウルフさんには次の作品はこのふたりを主人公に据えてふたりの回復を描いてほしい。Xを再インストールしてウルフさんにメンションを飛ばしてリクエストしよう、それがいい、それがいい、と思いながら60ページくらい一気に読んだ。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月30日
    外濠書店に入ってうろうろし、『読書の日記』もあった。『ダロウェイ夫人』が集英社のやつも光文社のやつもあり、光文社のを開いてみると始まりが「クラリッサは」でびっくりした。あるいは「とクラリッサは言った」だったかも。とにかく集英社のは「ダロウェイ夫人は」で始まる。これはすごい違いでなんせ小説の一文めだ、きっと象徴的な一文というか『重力の虹』の一文めが多くの人に記憶されているのと同じようにきっと多くの人に記憶されている一文だろう。その訳が固有名詞レベルで違うというのは驚きだ。光文社のやつのほうがきっと後の訳だろうから原文はクラリッサ的な感じなんだろうか。後の訳がいきなり原文を曲げるのはかなり蛮勇という気がするのできっとそうだろう、いつか確認してみようと思い、近くに『ボヴァリー夫人』があったので夫人たちを3冊を並べた。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月27日
    今度は空に飛行機が現れて人々は空を見上げた。 p.41 飛行機は急降下し、そして急上昇した。輪をえがいて旋回し、疾走し、降下し、上昇した。どういう動きをしても、どこへ行っても、後ろにもくもくと波立つ白煙の太い線があらわれ、それが空を背景に曲がり、輪となり、いくつかの字となった。でもなんの字だろう? C? E、それからL? 静止しているのは一瞬だけで、すぐに動きだし、溶けはじめ、跡形もなく空に消えてゆく。そして飛行機はそこを全速力で離れ、また新しい空域に文字を―たぶんK、E、Yと―書きはじめた。 そこから飛行機とともに舞台がリージェント公園に移ってそこでルクレツィア・ウォレン・スミスと夫のセプティマスの様子が描かれ、ふたりに道を聞いたメイジー・ジョンソンが描かれ、メイジーの様子を見たミセス・デンプスターが描かれ、ミスタ・ベントリー、それから大聖堂の中に入ることをためらう男、それらが描かれ、飛行機が飛び去っていった。 p.56 異様なほど静かだった。飛行機の爆音は車の行きかう通りまでは聞こえてこなかった。飛行機は操縦者をもたず、みずからの意志で飛んでいるようだった。エクスタシーへ、純粋な歓喜へと高まっていくかのように、飛行機は上へ上へと曲線をえがき、そしてまっすぐに上昇しながら、後部から煙の輪を吐き出し、T、O、Fという文字を書きつづった。 いや〜すごい! と喝采して、小説〜! と歓喜して、しかしルクレツィアとセプティマスの様子はぐっと辛い気持ちになる胸が苦しくなるものだった。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月25日
    女王陛下か皇太子殿下か総理大臣閣下が乗っているかもしれない車が通っていった。「車は立ち去ったが、あとに残されたわずかなさざ波は、ボンド・ストリートの両側に立ち並ぶ手袋店や帽子店や洋服店をひたした」。そして何かが起きた。 p.37 すべての帽子店と洋服店では、見知らぬ人たち互いに顔を見合わせ、戦没者や国旗や帝国のことを思う。ある裏通りのパブでは、植民地から来たひとりの男がウィンザー王家を侮辱し、そのために口論が起き、ビールのグラスが割られ、大騒ぎになったかと思うと、通りを隔てた店にも異様な反響をひびかせ、結婚式のために純白のリボンが縫いつけられた白いリネンの肌着を買っていた若い娘たちの耳もとにも達する。通りすぎていった一台の車がつくりだした表面上の動揺が、深みへと沈んでいくにつれ、とても深いところにあるなにものかに触れたのだ。
  • ひさ
    ひさ
    @hsysy
    2025年6月23日
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月22日
    開くと「ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った」と始まって 「小説が始まった」 といううれしい気持ちになって読んでいってクラリッサ・ダロウェイは朝で6月で晴れやかで爽やかな心地で外を歩いている、ずいぶん気分がいいみたいで「人生を愛している」とさえ言っている。ピーターのこととかリチャードのこととかについて考えながら歩いていた。 p.17,18 (六月になって、木々の葉がすっかり生い茂っていた。ピムリコの貧民区で母親たちは赤ん坊に乳をふくませていた。いくつもの電報が英国海軍艦隊から海軍省に発せられていた。アーリントン・ストリートとピカディリはセント・ジェイムズ公園の空気をかきたて、クラリッサが愛してやまない神々しい生命力の波動によって、木々の葉をあおり、熱く煌めかせているようにみえた。ダンスをし、乗馬をする。かつてわたしはそういったすべてを熱愛していた。) ピーターについて「こんな朝に、一緒に歩くには最高の相手だ」と考えたあとに改行があって突然このカッコ書きが入ってきてこれはマジでなんのカッコなの〜! と思い、それは幸福な心地だった。それにしてもこれはなんのカッコなんだろう。ときめく。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月22日
    先日フォローのタイムラインが『ダロウェイ夫人』『ダロウェイ夫人』『ダロウェイ夫人』と3連続『ダロウェイ夫人』になっていてそれ見た瞬間にむくむくと読みたくなり。
  • 阿久津隆
    阿久津隆
    @akttkc
    2025年6月15日
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2025年6月15日
    今この瞬間、人々、動物、植物、建物、地面や空気までもが同じ「時」を共有しているという感覚。瞬間を憎み、瞬間を愛する。目の前にあるこれ、ここ、いまへの手触り…から何十年も前の記憶の眩さまで。そのすべてのなかに愛するものがある。ひとつひとつは取るに足らないその現象が起こす余波をすべて合わせると、深いところにあるなにものかに触れる。ああよかったな……これから先何度も読み返す本になる気がする。
    ダロウェイ夫人
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2025年6月13日
    定期健康診断の順番を待ちながら読む。名字が変わってからというもの、未だにいちいち反応が遅れる。帰りながらも読む。 ひとりぼっちってとても身近なものだけど、ウルフはそれを表現するのに大きく深く鋭く抜けるような孤独にしてしまえる。大気をこすり夜空へ達したあと闇が注ぎ、山腹の輪郭は薄れ色彩はうばわれ、しかし暁とともにふたたび輪郭はもたらされるというような。
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2025年5月28日
    近くから遠く、そして深く時間を浮遊していくシーンの数々。車が走り抜け、微風が木々の間を吹き抜けたかと思えば、頭上をゆく飛行機を目で追う誰かになり、同じ瞬間、窓を見渡し考えごとをし、気づけば豊かな声が脊椎をこすり大脳まで音の波動が伝わる瞬間に立ち会う……という、わたしは誰でもないけど誰でもあるような、視点が上に下に横に奥にあらゆるところへなめらかにすべるように移ってゆく。この、時を駆けるふしぎな浮遊感、これこれ、これが読みたかった!となっている。
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2025年5月27日
    『灯台へ』があまりによかったので、先週本屋でヴァージニア・ウルフを何冊も手に入れておいた。たぶん今夜はすこししか読めないけど、明日まで待ちきれないので読みはじめる。さあさあ、わくわく、さあさあ。
  • 匙
    @sajisann
    2025年3月31日
    「灯台へ」よりも視点の跳び方が強くて、その度集中に一区切りついてしまって読むのに時間はかかったけど、素晴らしい文章が多かった。良かった。 最後、今までの描写が重なって何ともなく泣けてしまった。透明なものを守ろうとして死へ向かおうとする心と、年を重ねて帰り道のわからなくなった人生を同時に肯定していく一瞬の主人公の世界全ての情感が胸を締めつける。捧げ物の為の捧げ物。帽子のくだり読み返してまた泣いた。鐘の音。鉛の輪が溶けていく…。 “その瞬間、わたしは見る、光を、クロッカスの花のなかで燃える一本のマッチの炎を、ほとんどおもてにあらわれかけている内部の意味を。”
  • 2024年ベストの内の一冊。 昨年はヴァージニアウルフにハマって読みまくった。 人間の感情の流れが鮮やかで、ロンドンに行きたくなったなぁ… そして戦争の無常さが辛かった。
  • Ayako
    Ayako
    @aya_rb
    2025年3月17日
  • Ayako
    Ayako
    @aya_rb
    2025年3月7日
  • 雪餅
    雪餅
    @yuki3daifuku
    2025年3月7日
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