JUMPEI AMANO "ラディカル・マスキュリズム" 2025年7月27日

JUMPEI AMANO
JUMPEI AMANO
@Amanong2
2025年7月27日
ラディカル・マスキュリズム
第6章読む。 〈本章ではミサンドリーをミソジニーの副産物に限定させず、それ自体で「ある」ものだと仮定する。そうすることで、女性との関係論に依拠せずとも、男性が抱える自己嫌悪としてのミサンドリーが露わになる。〉(196頁) 〈男性を「つまらない存在」にする根幹〉(237頁)としてミサンドリーを考えていくアプローチに、前章同様ハッとさせらる。 次のくだりなんかは、小沼理『共感と距離感の練習』ともリンクしそうな議論でドキドキした。 〈しかし、ほかの解釈もできる。ゲイ男性はそうではない男性にとって、「男性と向き合い、男性を愛する」という、ミサンドリーを克服した存在として把握されているのではないか。〉(203頁) 「男性と性」、「異性愛(ヘテロセクシュアル)」を考えるうえで「Aro/Ace(アロ/エース)」を参照するパートも面白かった。 「弱者男性論」の中身を検証する節についた次の脚注も大事だな、と。 〈「弱者男性論」が話題になることで、得をするのは「強者男性」である。自分とは縁のない「弱者男性」と女性やフェミニストが対立しているかのような枠組みが設けられることで、男性がトータルで優位に立っている事実は覆い隠され、「強者男性」が追及されずに済むからだ。だからこそ「強者男性」にとって、男性の権力や加害性が批判されたとき、「弱者男性論」は使い捨ての駒として差し出すにはちょうどいい。〉(213頁) 「インセル」の脚注でふれられる、その語の〈元の趣旨〉(221頁)にもへぇ〜となった。完全に見えなくなってしまっているけど、別の可能性、方向性がありえた言葉だったのだな...。 最終的にミサンドリーに対抗する処方箋として①〜④が提出されるが、「②家父長制を内側から蝕む男性の声として、ミサンドリーを再定位する」が特に面白かった。そして結局、それだけでは限界があり、どれも満遍なく実践していくことが大事、というのは至極まっとうな結論だと思った。 「おわりに」で執筆背景と共に語られる、なぜ「批判的男性研究(CSM)」ではなくあえて「マスキュリズム」を冠したか、という狙いの部分も、読み終えるにあたってはかなり切実に響くものがある。 全体的に尻上がりな構成だった。 書き忘れていたこと:第3章の脚注26で堀川修平『「日本に性教育はなかった」と言う前に』を参照いただいており、嬉しかった。ありがとうございます。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved