中根龍一郎 "伴侶種宣言" 2025年7月31日

伴侶種宣言
伴侶種宣言
ダナ・ハラウェイ,
永野文香
『チャイニーズ・タイプライター』に頻出していた「リトリーブ」の表現から、ダナ・ハラウェイもレトリーバーについて書いていたな、と思って、読み返した。でも実際にはそれは、レトリーバーについてというより、レトリーバーではないもの、メタ・レトリーバーについての愛に満ちた小文だった。 レトリーバーというのはまるでこの二、三秒に生死がかかっているみたいに、ボールや棒を投げる人をじっと見つめるものですね。ところが、メタ・レトリーバーたちは、そのレトリーバーたちが並外れた感受性でもって投擲物の方向合図やマイクロ秒レベルの跳躍に反応するのを見つめているのです。〔中略〕レトリーバーたちが投擲物を追って走りだすと、メタ・レトリーバーたちはその強靭な視線の外側を走って忍び寄り、いかにも嬉しそうな様子で巧みに頭突きをしたり、かかとに噛みついたり、数珠つなぎになったり、割って入ったりします。上手なメタ・レトリーバーになると、一度に二頭以上のレトリーバーをさばくことさえできます。一方、上手なレトリーバーたちはメタたちをかわしたうえで、それでも目の醒めるような跳躍を決めて投擲物をキャッチしてみせます。 (『伴侶種宣言』p.86、88) ここで言及されているハラウェイの犬、〈メタ・レトリーバー〉のローランドはオーストラリアン・シェパードの遺伝子を持つ雑種で、つまり牧羊犬だ。撃ち落とされた獲物をくわえて人間のもとへ帰ってくるようその系譜に刻み込まれたレトリーバーがいるように、気ままに動こうとする動物へ一定の規律を課して群れへ誘導するようその系譜に刻まれた牧羊犬がいる。犬たちは人間によって使役され、支配され、狩猟や、牧畜や、軍事や、さまざまな役目に動員されてきた。そこには少なからず暴力や非対称性があり、しかしまた、犬たちもそうすることによって生き延び、利得してきたという共犯関係がある。 フェミニズムの理論にサイボーグを重要なタームとして持ち込んだハラウェイが、より現代にマッチしたフェミニズム理論の概念装置として、サイボーグの次に練り上げたものが伴侶動物であり、より限定的な形としては犬だった、というのに、ひとりの犬好きとして興味を惹かれて読んだ。小ぶりな本で、そこまで理論的に詰められている印象はなく、どちらかというと思弁的なエッセイ集に近い。そこには犬への愛があり、他者の存在をどのように承認するかという問題意識がある。 再生産的異性愛にくみすることのない伴侶動物との関係に、ポジティブな意味でのクィアネスを見出そうとするハラウェイは、犬と人とが互いに見つめ合い、互いのあいだで生まれていく諸世界を承認し、目の前にある他者性に反応することを愛の行為として肯定する。そのような愛の行為のチャンスはきわめて短い。目の前でじかに生成する、今・ここにいる他者への注意深く瞬間的な応答だ。ハラウェイはそうした愛の行為を〈存在論的コレオグラフィー〉と呼び、ダンスの比喩で表現する。犬と踊ること。犬のステップに対してそのステップを生かし、そのステップとともに生きる、適切なステップを踏むこと。互いにそれぞれの個体として存在しながら、ともにコレオをなすこと。 犬と人との間には歴史的・社会的に無数の問題がある。殺処分の問題や生体販売の問題、人を咬む犬の問題、人為的につくられた犬の本能の問題、交配によって生まれた健康上の問題をかかえる品種の問題、いくらでも出てくる。そうした問題について、ハラウェイはたびたび言及する。ある個体の犬と触れ合うとき、「わたしたちは、肉体のなかに、わたしたちを可能にしてくれた犬たちと人びととのつながりをすべて体現する」と彼女は書く。話は犬と人に限らない。現在の犬たちを構成する歴史的存在としてハラウェイが持ち出すのは、絶滅から種を保護するためという触れ込みでアメリカの国立公園に放たれたハイイロオオカミ(2002年の統計によればワイオミング州でそうしたオオカミによって42頭の犬が殺されたという)や、観光資源としてスロヴァキアやピレネー山脈に迎えられたヒグマ(家畜護衛犬が戦わなくてはならない相手だが、捕食動物の犠牲になった犬は保険によって補償されるため、その保険金が魅力的になってしまう——犬は「クマを追い払うよりも保険装置と戦わなければならない」とハラウェイは書く——)のような、犬にまつわる人が責任を持つすべての動物であり、それは結局ほとんど全生態系につながっていく。「わたしたちにはまるごと全部の遺産が必要だ」とハラウェイは書く。「わたしたちは、無垢なふりをせずにその遺産のなかに棲まうことで、あそびがもつ創造的な優雅さを望むことができるかもしれないのだ」 コーヒー一杯のエシカリティを考えることはむずかしい。服一着のエシカリティを考えることもむずかしい。リベラルな倫理観というのは、私たちの個体の世界観に対してすこし無理のあるスケールを要求している。でも私たちは膨大な関係性の編み目のなかで、その来歴を「実際は」知りうる環境にいて、知ることが望ましいとされる世界に生きている。目の前にいる一頭の犬は、犬好きにとって、愛さずにはいられないある切迫した存在として、意識に現象する。 そのようにして差し迫ってくる存在は、もしかするとふるくは恋人や子供の比喩で語られたのかもしれない。でも恋人や子供の比喩には、家族、子供、女、男、再生産といったまた別の問題がついてまわる。もちろんそうした比喩が有効性を持つ人や場合もあるだろうし、犬を比喩装置として使うことの、また別の問題もあるだろう。大事なのはたぶん、旧来の家族カテゴリーを離れた伴侶動物というカテゴリーの可能性をとっておくこと、その迂回路を、いわば「確保しておく」ことだ。その道が必要となる人や、その道が必要となるときのために。 わたしが犬の「ママ」と呼ばれるのが耐えられないのは、すでに成長した犬を幼児化したくないからだし、それにわたしが欲しかったのは赤ん坊ではなくて犬だったという重要な事実を誤認したくないからである。わたしの多種から成る家族は何かの代理や代替ではない。 (『伴侶種宣言』p.147)
鳥澤光
鳥澤光
@hikari413
猫にかまけて暮らしている今、私が読むべき本はこれだ!と嬉しい焦燥にかられます。わーい読みます。
中根龍一郎
中根龍一郎
@ryo_nakane
ぜひ! 私は猫も好きなのですが、犬は犬で、猫は猫で、一緒に暮らしていると独特の存在感がありますよね。そういう人間でない、でも愛や責任の対象になる生き物のことを考えるひとつの道筋として、とても面白い本でした。
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