サリュウ "鳥の夢の場合" 2025年7月31日

サリュウ
サリュウ
@sly_notsry
2025年7月31日
鳥の夢の場合
鳥の夢の場合
駒田隼也
ボトルアクアリウム/テーブルビオトープのような世界観と知覚のなかで(それをそうと認めたうえで)、その外側や内側、境域や、異なる知覚、別のアクアリウム/ビオトープの存在をなるたけ素直に書くならば、こう。という小説のように初読では感じた。透明な境域のある(もしくは、あると仮定する)、循環する生態系(ボトルアクアリウム/テーブルビオトープ)のなかでは生死や時間も循環し、それらをも循環する/させることがアクアリウム/ビオトープの「そうである」という確度も高めていく。そういうイメージが読んでいるあいだずっと頭にあった。 スツールが、使用想定をある種超えた場所に次々置かれていき、そこに座り初瀬が「練習」するというのは、だから本来鑑賞される立場にあるアクアリウム/ビオトープのなかで循環する生命が、裏返って鑑賞側へ立つ「練習」なのかもしれない。飛躍するとそれは人間としてこの世を生きながら神を、仏を「練習」するということ。 深読みするならば作中扱われる方言もある種ボトルアクアリウム/テーブルビオトープ的とも言えて。そこに住んでいる/住んだことのある者、話者以外にとって方言は奔放に扱うことができず、方言話者ではない読者は話者としての自分を生成できずただ鑑賞者になる。大きく見れば日本語それ自体もそう。
サリュウ
サリュウ
@sly_notsry
読んでいるあいだの表層的な感想としては「展開のなかで思ったより早くに蓮見は殺されるんだな」というところで、むしろそこから先がサビっぽかった。 文鳥やスズメ、鹿といった、そこにいる/いた動物が物語全体を通して個別に登場していき、最後に渡り鳥とそれを宿主とするウィルスについての語りが来る。外の世界からささやかな破局めいたものが境域を突き抜けるようにやってきて、しかしそれすらも循環のなかの出来事なのかもしれず、物語は閉じる。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved