saeko "湯気を食べる" 2025年8月12日

saeko
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@saekyh
2025年8月12日
湯気を食べる
湯気を食べる
くどうれいん
人生における幸せとはなんだろうと考えるとき、若い頃はなにかを成し遂げたり何者かになることだと漠然と思っていたけれど、社会人になってからの紆余曲折を経て、自分は何者にもなれないし、何事も成し遂げられないと悲観でも諦念でもない単純な事実として気づいた結果、何気ない生活を積み重ねることこそが幸せだと思うようになった。 そんな生活の中で欠かせない要素のひとつが食事であり、それに楽しみを見出すことは、たまらなく日々を豊かにしてくれるものだと思う。 もちろん、食べることにさして興味がない人もいるだろうから誰にとってもそうだとは言わないが、自分にとっては旬の食材を食べること、おいしい調味料を手に入れること、野菜を茹でてぶわっと色鮮やかになる瞬間にちいさく感動したり、手は込んでいなくても自分でつくった料理に心が満たされることは、たいそう豊かなことであるなあと感じる。 このエッセイではそんな生活の中のちいさな食の楽しみがひとつひとつ掬い上げられていて、食事を楽しむということは人生に希望を持つということだなあと、大げさかもしれないが感じさせられる。瀟洒なレストランに外食しにいくとかそういうことではなくて、あくまで日常に紐づいて展開される食生活が心地よい。スーパーで安売りされている食材に目を向けたり、筆者のレシピをまねしたりして、さらに食事を楽しみたいなという気分になる。 ひとつだけ腑に落ちないのは、「自炊は調律」というエッセイで、「自炊が好きなんてえらいですね」と投げかけられることに対し、「あなたが自炊をできないことはわたしには関係がない」と言いながら、「あなたが自分の自炊を自虐するとき、わたしの自炊も傷つく」と言っている点だ。 あくまでエッセイなので、本人が感じたことを自由に書けばいいし、それにどうのこうの言うのはナンセンスかもしれないが、わたしは「他人と自分の自炊が関係ないと思うなら、なぜ牙を剥くんだろう」と思ってしまった。 自分を調えるための手段が筆者にとっては自炊で、それ以外の選択肢を持っている人をうらやましく思うというのはわからなくはないし、全然やりたくないのにやらざるをえない状況だったというなら憐憫の情も湧く。 しかし筆者にとって自炊は「あまりにもたのしく、それを取り上げられた人生のことを想像できない」と書いている。 であれば「自炊を楽しいと思えるわたしとそれ以外のひと」と線引きしてしまえばいいのに、それができず、羨ましがられることに対して負の感情が湧くというのは、自分と他人の自炊を関係づけていることに他ならないし、いったい他人に何を期待しているんだろうなあと思ってしまう。 本人が文中にも書いているように、きっと「自炊をしてきた自分」というものに強いプライドを持っていて、それを他人にとやかく言われるのが許せないのだろうな…と我の強さを感じてしまった。 それがなんとも自分の感性と合わず、穿った目線になってしまって、そのあとのエッセイはあんまり素直な気持ちで読めなかった。
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