
saeko
@saekyh
2025.07以降に読んだものと思ったことの記録
- 2025年10月9日母親になって後悔してるオルナ・ドーナト,鹿田昌美幼い頃から、子どもが欲しいと思ったことはなかった。社会人になって、経済的に自立してからは、自分の人生が自分のものになったという感覚を得て、子どもを持つことで、その主導権を明渡してしまうことになるのは嫌だと思っていた。 しかし30代に突入して時間が経つにつれ、「子どもがいたほうがいいのかな」と思うようになった。しかしいまだに、「欲しい」とまでは思えていない。 本書を読んで、この「いたほうがいいのかな」という考えに潜む固定観念に気づかされた。女性は、母親になることが正しい生き方で、そうでない選択肢をとる人にはなにか問題があるのだと、実はそういう考えが染みついているのだと思う。マイノリティになることが怖いし、「子どもがいないことで数十年後に後悔するんじゃないか」とも思ったりする。しかしきっとそれは、「子どもがいないことで後悔する」という考え方をいつのまにか内在化させてしまったからではないか。 本書は子どもを持たないことを奨励する本ではない。今も昔も抑圧されつづけている、母親であることの苦悩と後悔を表明することの意義に光を当てる画期的な一冊だ。研究を通して、いかに母親が完璧な存在であることを求められているか、子どもを持つべきという社会的圧力をかけられながら、子どもができたら本人の責任とされて、声をあげることを否定されているか、母親が無視無欲で慈しみ深くあることを求められ、自己を抑圧されて「顔のない存在」となっていることが浮き彫りになる。 本当は自由でいいはずなのだ。子どもがいてもいなくても、子どもがいて幸せでも苦しくても。そして苦しいと表明することは、母親であることや子どもの存在を意味しない。本当は後悔していると言っていいのだ。どんな選択にも後悔はつきものなのだから、母親になることを後悔して、それを分かち合うことで、女性として、人間としての生きやすさに繋がっていくと気付かさせられた。
- 2025年10月5日やさしいお守りのような本だ。主旨は最近読んだ『東大生はなぜコンサルを目指すのか』や『物語化批判の哲学』と共通していて、資本主義社会において社会人として成長し続けなければならないという価値観を内在化の強制や、世界の複雑さを単純化するために無理やりな因果関係や物語を設定させられることによる自己認知の歪みなどに対する問題提起になっている。 一方で異なる点は、他の作品では著者がある種外部的な立場から冷静に分析したり、怒りやフラストレーションを元に批判をしているのに対して、本書の著者は激務によりうつ病を発症した当事者であるため、向き合い方に切実さや悲しみが滲む。ゆえに同様の問題に苦しむ読者に向けての寄り添いの意識が感じられる。望んではいない競争に投げ込まれてしまったけれど、その中を生き抜かなければならない人々に対して、どうしたら自分の心を守ることができるのかを伝えようとする模索の書であり、そのまなざしがとても優しい。 子どもの頃から将来の夢を表明させられ、それに向けた効率的な努力を志したり、もっと生産性を上げるための能力の向上を求められたり、そのような直線的な成長が求められているわたしたちの状況は、決してそれが真理というわけではなく、あくまで市場経済というゲームの中で便利な形であるためであると看破する。 だからといっていまある社会の形を変えられるわけではないけれど、そもそも能力は人の中に内在するものではなく、環境との相互作用によって発揮されるものである、という考え方や、人生とはなんらかの目標を目指して右肩上がりになっていくのを目指すのではなく、同じ営みを繰り返す円環的な在り方があるべきなのではないか、という、刷り込まれてきた価値観を覆してくれる主張の数々が印象的。 仕事に疲れたとき、少しページを捲るとその時々に適した示唆が得られそうな一冊だ。
- 2025年10月1日「批判の哲学」だから当たり前なのだけど、1章から4章まで現代人や物語・ゲーム・パズル・ギャンブルといったメディアへの批判が延々と続くので、途中で読むのがしんどくなった。たしかに切り口は新鮮で面白いのだが、まるでそのメディアを楽しむことそのもの自体が愚かだと言うような書きぶりにちょっとうんざりしてくるし、批判がほとんどを占めていて、ではどうすべきか?の提案は抽象的でほんのわずかだし、数々の文献を引用しているのはすごいはすごいのだが、他者の理論を援用した小難しい話がずっと続くので、疲れる読書体験ではあった。最後の5章「おもちゃ批判の哲学」がやっと前向きな内容だったので、ああ筆者がこの本を通して伝えたかったのはこういうことなんだな。とようやく腹落ちできた。 ただ主張自体は共感できる部分が多かった。最近読む新書に共通して言えることなのだけど、複雑な世界を単純化して捉えることの不適切さや危うさを糾弾する段階にきているのかなとも思う。たしかに自分も、就職活動で面接官にウケそうな物語を考えるのにはうんざりしたし、面倒な仕事に辟易としていたとき、上司に「これもいい経験になったよね!」と言われ、うるせえなと心底嫌な気持ちになった記憶がある。人生はただの時間の経過であり、物事の積み重ねなのだけど、因果関係で語りたくなる、そこに魅力を感じるのが人間というもの。「わかりやすさ」「伝わりやすさ」の名のもとに長く正当化されてきた人生の物語化に真っ向からNOを突きつけ、無目的に当意即妙に遊ぶような生き方を提案する筆者の主張は、成長神話や感動ポルノに侵された社会に一石を投じるものだと思う。
- 2025年9月29日人類学とは何かティム・インゴルド,奥野克巳,宮崎幸子小ぶりで薄く、北欧の森林を思わせるイラストが描かれた絵本のような装丁だが、その見た目に反して中身は重厚で鋭利で挑戦的だ。 旧来の人類学研究を批判しながら、著者ならではの理論を打ち立てており、しかもそれが広く一般に理解されている近代科学の考え方とは大いに異なるものであるため、人類学の入門本としてはとっつきづらいのではないかと思った。 加えて、文章が直訳的で、英文の構造をそのままに翻訳されているであろう箇所がちらほら見かけられるため、日本語として咀嚼するのも少し難しさを感じた。 一方で本書で投げかけられている視点は科学主義・定量主義に侵されたこの世界に一石を投じる、とても重要なものだ。 我々は社会を単純に理解したがる。調査対象を客体化し、分析して、その概要を明らかにしようとする。人類学においてもそのようなアプローチがとられてきたが、筆者はそれを痛烈に否定し、世界の中に潜りこみ、人々についての研究ではなく、人々とともに研究するのが人類学であり、それはなにか隠れている事実を明らかにしようとするのではなく、見えないものを見えるようにする試みであり、科学というよりもアートに等しいと主張している点が目から鱗だった。 ギアツやレヴィ=ストロースといった権威的な学者を容赦なく批判しながら、現象学や身体性認知に通底する、要素還元の否定と、世界内的存在としての人間の立場からどう生きるべきかを思索せよというクリエイティブで示唆深い投げかけがされていた。 本文内には過去の人類学の否定や学説への批判が多く、著者が主張する人類学のあるべき姿についてやその実践についての具体的な記述がやや乏しい点で少しバランスがとれていないような感じはしたが、それでもデカルト的思想に染まった我々の価値観を揺るがしてくれる、一読する価値のある本だと思った。
- 2025年9月27日Face with Tears of JoyKeith Houston絵文字の歴史!仕事でも私生活でも毎日使う身近な存在でありながら、想いを馳せてもみなかった。 文字の中に絵を交えるという表現は、実は古代から存在していた。それが絵文字として急速に発展するのは、GUIが発明され、パソコンや携帯電話などのデバイスが人々に普及する1980年代以降。 当初は若者の使用を促進するためのちょっとした表現であったものの、みるみるうちにさまざまな国の人々に広がった絵文字は、人種やジェンダーの多様性に対応することを要請され、ユーザのアイデンティティを表現するものとしての意味合いを帯びていく。 性的コンテンツや薬物などの違法なやりとりの伏字として使われたり、大企業やセレブリティから商業的に利用されたり、さまざまな文脈に拡大して使われるようになり、時に物議を醸し、議論の元になってきた絵文字。実はUnicode Committeeによって厳格に管理されている。委員会に承認されないと利用可能にならないことや、マイノリティや政治的問題への対応の遅さが指摘されはするものの、かわいらしいデコレーションという範疇を遥かに超え、全世界の人々が自分の意見、思想、価値観を表現するうえでの不可欠な要素となった絵文字の管理と存続について、不断の努力を続けている存在なのだ。 絵文字を頻繁に使いはするものの、その多様化にあまり関心を持っていなかった(なんとなく増えたな〜くらいにしか思っていなかった)ので、その背景やそれを取り巻く議論を知ることができて面白かった。国の政治状況によって、国民に使われる絵文字に偏りがあるらしく、絵文字は世相すら反映するメディアになっていて、自分が想像していたよりも人々のコミュニケーションにおいて大きな意味を持つ存在になっているということを知った。 著者が絵文字の誕生と発展の歴史について網羅的に、時に批判的に振り返りながらも、最後は“the world of text is far richer for having emoji in it.”と前向きに締めくくっているのがよかった。巻末に歴史のまとめや出典も丁寧に記されていて、とても読み応えのある本だった。全編にわたって絵文字がたくさん&オールカラーで読みやすいのもポイント高いです!
- 2025年9月24日語学の天才まで1億光年高野秀行壮大なドラマを見終えたような気分。筆者の好奇心、探求心、行動力に頭が下がる。自分の人生では決して経験することはないであろう、クレイジージャーニーさながらの冒険の数々。なぜそんな魔境に乗り込もうと思えるんだ…とまったくもって理解不能ではあるが、だからこそのぶっ飛んだエピソードの数々がとても面白い。言語に対する向き合い方も真摯で、言語の成り立ち・学習法あわせて勉強になる。
- 2025年9月19日読んでから少し時間経っちゃったけど、読みやすくて内容も面白くてよかった。 タイトルと著者名からどんな自己啓発本なんだと少し警戒していたけど、想像以上に真摯に現代社会の問題について向き合った本だと思った。 わたしも社会人として生きる中で、「成長しよう」と言われることに嫌悪感を抱きつつ、「なんとなくもっと年収を上げたい」という漠然とした欲求を感じていたので、この本の内容すべてが自分ごととして捉えられた。 成長できそう、選択肢が広がりそう、という判断基準の先に得られる選択肢とはなんなのか。そもそも自分にとって成長とはなんなのか。 社会に求められることに応えようとするのではなくて、自分自身の内奥と向き合うことの大切さを感じさせられた。社会人なら誰しも一読して損はない一冊だと思う。
- 2025年9月7日
- 2025年9月1日ソーシャルメディア・プリズムクリス・ベイル,松井信彦Twitterやヤフコメを開くと、飛び交う流言蜚語や罵詈雑言の数々に辟易とするばかりだ。文字数が限られたプラットフォームでは、端的で過激な物言いがユーザの目を捉えやすいのだろう。著名人への批判、社会への不満、意見の異なる相手とのレスバ…などなど様々な場面で、実生活で直接耳にすることはほとんどないような、酷い言葉が投げかけられている。わたしはその様子を見るたび、「なんでそんなことするんだろう?」と疑問で仕方がなかった。そしてこの本は、計算社会科学という学問の見地から、その問いに懇切に答えてくれた。 目から鱗だったのは、なぜ人がソーシャルメディアを使うのかという問いに対し、「無限スクロールといいねという報酬でアドレナリンを増幅させる仕組みが人々を依存させてしまった」という従来の言説を否定していたことだ。筆者によれば、それは一部分でしかなく、根本的な理由は、自己呈示によるアイデンティティ形成にあるという。ソーシャルメディアでは、自分の都合のいい部分だけを切り取って呈示することができる。それに対する他者からのフィードバックを通し、わたしたちは「どのような呈示をすると・他人からよく思われるか」を学習する。そしてその自己呈示がいいねやシェアによって肯定されることで、帰属意識を得るという。アイデンティティの形成要素となっているソーシャルメディアは、もう容易に棄却することはできない。 もう一つ画期的なのは、過激派は異なる意見を目撃することで相手を理解するのではなく、さらに自分の意見を正当化する傾向を強めるということだった。さらに穏健派はリスクを恐れてソーシャルメディアでの意思表明を敬遠する。その結果、過激派同士が衝突する構造が生まれる。また、どのような派閥にも過激派が存在するにも関わらず、人は自分の思想と対立する派閥に過激な意見が多いと感じる傾向があるそうだ。ソーシャルメディアはこのようにしてプリズム(人々の意見を屈折させる多面体)として機能しているという。 本書での研究はアメリカ政治に関するものだが、日本社会に置き換えて読んでもまったく違和感のない普遍性があると思う。筆者がプリズムを打破するために提案しているアイデアは、妥当ではあるがおおよそ理想論的な内容であるため、ソーシャルメディア上の攻撃的な会話を減らす特効薬にはならないだろう。しかし、膨大な研究の末に導き出された理論を知っておくことは、自分自身がソーシャルメディアを賢く使うこと ー つまりタイムラインに表示される情報はプリズムによって歪められたものであると自覚し、それに振り回されないこと ー に繋がるはずだ。ソーシャルメディアが老若男女に膾炙した今だからこそ読んでおきたい一冊。純粋な社会学研究としても面白い。
- 2025年8月28日「ありのまま」の身体藤嶋陽子わたしたちはいつになったら美しくあることから逃れることができるのだろう。 この本を読みながら、頭の中で絶え間なく考え続けた。 わたしはルッキズムや過食症、醜形恐怖症に苦しんだ過去がある。学生時代、同世代の男性にかわいい子とそうでない子で明らかに差をつけられ、自分はかわいくないんだと感じたことが、いまなお続く自己肯定感の低さの根幹にあると思う。ストレスの捌け口が食に向いてしまって、体重が増えるごとに漫然と「痩せなきゃ」と焦る。他人に撮られた自分の顔の写真を見てがっかりするのは日常茶飯事だが、顔立ちへのコンプレックスを募らせてパニックを起こしたように泣いたこともあったあの頃に比べたらだいぶマシになったのだろう。 子どもの頃からさまざまなメディアを通じて、画一的な美の基準を刷り込まれてきた。小学生の頃にはもう痩せていなければいけないと思いダイエットを考えていたし、高校生の頃には幅広二重の芸能人の写真を見ては羨ましさに焦がれた。昔に比べればいまは他人の容姿に言及することは社会的規範によって憚られているが、それでも見た目によって自分からも他人からも評価されることがなくなるわけではない。 そしてその事実に苦しくなる。 ボディポジティブとはどんな体型の自分も愛そうというムーブメントだが、そもそもなんで自分の身体を愛さなきゃいけないんだという気持ちにもなる。「ありのまま」でいたいという気持ちと、見た目を磨くことで気分が上がる気持ちと、見た目がよくないことで劣等感を抱く気持ちが常に内混ぜになっている。 本書を見たとき、そんな葛藤に対してなにか答えを出してくれるのではないかと、縋るような気持ちだったのだが、ほとんどがファッションと美容とボディイメージをめぐる社会の趨勢の分析に止まっていた。提言されていたのは、こうした矛盾に自覚的であること、今後も健やかな美容産業の形を模索し続けることのみで、本質的な解決や救いに繋がるものではなく、正直少しがっかりしたが、まあそれが率直な現状なのだろうとも思った。 我々が身体をインターフェイスとして生きている以上、その評価から逃れることはできないし、刷り込まれてしまった美の規範を忘却することもできないが、それが外的要因で形成されたもので、時代と共にうつろうものであると知っていることで、少しでも苦しさから解放されることができるのかもしれない。
- 2025年8月25日「あの戦争」は何だったのか辻田真佐憲「歴史とはつねに現在からの解釈であり、現代の価値観が揺らげば、その評価もまた変わりうるということである」 「歴史とはやはりたんなる事実の羅列ではなく、一定の歴史観や価値観にもとづいて構成される物語でもある」 歴史とは、"在る"ものではなくて、"捉える"ものなのだと知った。 わたしが学校で教わってきた近代日本政治史は、一億総懺悔や自虐史観の流れを受け継いだものであったと思う。日本は中国や東南アジア諸国を不当に侵略し、アメリカに対して無謀にも奇襲攻撃を仕掛けて開戦するという過ちを犯した。それは軍部の暴走が招いた愚かな意思決定であったというものだ。 もちろん日本を一辺倒に悪として論じるべきとは思わないものの(原爆投下や、極東裁判の妥当性は人類が一生かかっても正当に評価できないと思っている)、日本が間違っていたと当たり前のように思っていた。 もちろん、戦争は絶対に肯定も正当化もされるべきものではないと堅く信じている。 しかし本書にある通り、当為(戦争は起こすべきではない)と存在(現実に戦争は起きる)を区別して考えると、日本が開戦に追い込まれた状況が、多角的な視点から浮かび上がってくる。 さまざまな仮定をもとに、当時の時代背景からして戦争に突入しないことは難しかった、もしくは戦争に参加しなかったとしても敗戦国ではない日本が冷戦下においても不戦を維持することは難しかったのではないか、というシナリオを想定することで、特定の人物や出来事に責任を付すのではなく、複合的な要因がわかちがたく絡み合い、当時の人々はその複雑さと不確実性の中をどうにかして生き抜かざるを得ない状況だったのだ、という捉え方をすることができた。 かつ、歴史とは常に逆照射して解釈することでしか語れないというのも目から鱗だった。 筆者は、東條英機が訪問した各国の博物館を訪れ、戦時下における日本との関わりがどのように評価されているかを調査している(この労力に心から敬意を払いたいし、その調査内容が1000円強で読めるというのはものすごく価値のあることだ)。 その結果として、国によってその位置づけや語り口が異なることを発見している。そこから、歴史の評価も単一ではなく、それぞれの国のナラティブによって多様化していることが証明されている。 これらの情報から得られたことは、歴史を単純化しないという姿勢だ。複雑さを受け入れ、右でも左でもなく、できる限り中間に立って物事を見る。そのうえで、いま自分が置かれている状況で、どのような物語を語るべきかを考えることが、過去の歴史と向き合いながら、少しでも建設的な未来のためにやるべきことなのではないかと思った。
- 2025年8月23日一次元の挿し木松下龍之介うーん、ちょっと期待外れだったかも… 不穏な設定には興味をそそられるし、広げた大風呂敷をちゃんと畳んでいるのは見事だけど、 主要人物の設定が飛び道具的だなという印象を受けてしまったのと、読者を困惑させるために取り入れたんだろうな〜と見透かしたような気持ちになってしまう差し込み的なシーンがいくつかあったり、最後の展開が少年マンガ的だったりして、すこし興が削がれてしまったのが正直なところ。 美男美女のキャラクターが多いので、誰か想像しながら読むのは楽しかった。
- 2025年8月16日BUTTER柚木麻子「どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ。」 「なにもかも自力で乗り越えなきゃいけないわけじゃないよ。成長をし続けなきゃいけないわけでもないよ。そんなことより、今日一日をやり終えることの方がずっと大事」 ジェンダー平等を叫んでも、意識せずに過ごそうとしてみても、この社会に分かち難く組み込まれている男女の別。男性だから/女性だからこうしなさい、こうでなければならない、こうすべきだという考え方が、気づかないうちに私たちに浸透し、苦しめている。近年は女性の権利が声高に主張される傾向があるように感じるけれど、この世は男性も女性も地獄なのだ。 こんな世の中を生き抜くために大切なことは、他人に救いを求められること。救いを求めた人の手をとること。結局は人との繋がりが、居場所をつくり、存在を肯定してくれるのだと思った。 登場人物たちが被告人の放言に翻弄され、自分の中の痛みや苦しみと向き合いながら、最後はそばにいる人との絆を慈しみ、尊んでいくラストに心がほの暖かくなる思いがした。これはケアの物語だ。
- 2025年8月15日
- 2025年8月13日十戒夕木春央『方舟』の衝撃的なラストを何度も何度も読み返した夕木春央さんの作品、本屋で文庫化されているのを見つけて嬉しい!!と思い購入。前作がすごく読み応えがあったし、設定を聞いただけでも面白そうだったので、今回はどんな展開になるのだろう?とわくわくしながら読んだら、期待を上回る鮮やかなトリックで、この最後の数ページでコペルニクス的転回を起こさせる論理の組み立てが、もう凄いとしか言えなさすぎる。一度読んで終わりじゃなくて、違う解釈をしながら読み返すことで何度も楽しめるミステリー、秀逸すぎる。ほんのり切なさの滲む終わり方も含めて、個人的には方舟よりもこちらのほうが好きかも。
- 2025年8月12日湯気を食べるくどうれいん人生における幸せとはなんだろうと考えるとき、若い頃はなにかを成し遂げたり何者かになることだと漠然と思っていたけれど、社会人になってからの紆余曲折を経て、自分は何者にもなれないし、何事も成し遂げられないと悲観でも諦念でもない単純な事実として気づいた結果、何気ない生活を積み重ねることこそが幸せだと思うようになった。 そんな生活の中で欠かせない要素のひとつが食事であり、それに楽しみを見出すことは、たまらなく日々を豊かにしてくれるものだと思う。 もちろん、食べることにさして興味がない人もいるだろうから誰にとってもそうだとは言わないが、自分にとっては旬の食材を食べること、おいしい調味料を手に入れること、野菜を茹でてぶわっと色鮮やかになる瞬間にちいさく感動したり、手は込んでいなくても自分でつくった料理に心が満たされることは、たいそう豊かなことであるなあと感じる。 このエッセイではそんな生活の中のちいさな食の楽しみがひとつひとつ掬い上げられていて、食事を楽しむということは人生に希望を持つということだなあと、大げさかもしれないが感じさせられる。瀟洒なレストランに外食しにいくとかそういうことではなくて、あくまで日常に紐づいて展開される食生活が心地よい。スーパーで安売りされている食材に目を向けたり、筆者のレシピをまねしたりして、さらに食事を楽しみたいなという気分になる。 ひとつだけ腑に落ちないのは、「自炊は調律」というエッセイで、「自炊が好きなんてえらいですね」と投げかけられることに対し、「あなたが自炊をできないことはわたしには関係がない」と言いながら、「あなたが自分の自炊を自虐するとき、わたしの自炊も傷つく」と言っている点だ。 あくまでエッセイなので、本人が感じたことを自由に書けばいいし、それにどうのこうの言うのはナンセンスかもしれないが、わたしは「他人と自分の自炊が関係ないと思うなら、なぜ牙を剥くんだろう」と思ってしまった。 自分を調えるための手段が筆者にとっては自炊で、それ以外の選択肢を持っている人をうらやましく思うというのはわからなくはないし、全然やりたくないのにやらざるをえない状況だったというなら憐憫の情も湧く。 しかし筆者にとって自炊は「あまりにもたのしく、それを取り上げられた人生のことを想像できない」と書いている。 であれば「自炊を楽しいと思えるわたしとそれ以外のひと」と線引きしてしまえばいいのに、それができず、羨ましがられることに対して負の感情が湧くというのは、自分と他人の自炊を関係づけていることに他ならないし、いったい他人に何を期待しているんだろうなあと思ってしまう。 本人が文中にも書いているように、きっと「自炊をしてきた自分」というものに強いプライドを持っていて、それを他人にとやかく言われるのが許せないのだろうな…と我の強さを感じてしまった。 それがなんとも自分の感性と合わず、穿った目線になってしまって、そのあとのエッセイはあんまり素直な気持ちで読めなかった。
- 2025年8月5日ブレイクショットの軌跡逢坂冬馬「彼ら二人の人生は複雑で、批判的に捉えるにせよ虚像の中で英雄的に捉えるにせよ、どうとでもいえるのだろう。」 「世の中にある情報ってそんなに『わかりやすく』できるものなんだろうか。ひょっとして(中略)世の中の多くの人たちは、いつも複雑な世界を過剰に分かりやすくしてくれる誰かを求めていて、その一人がジョー先生なのではないだろうか。」 直木賞候補だったこの作品。本屋で手に取ったときは想像よりも分厚くて読み切れるか少し不安だったけれど、ひとつひとつのエピソードに深みがあって面白く、読み進める手が止まらなかった。 それでもボリュームがあるので読む楽しみが続くのが、長編小説のいいところだと思った。 本作では、異なる場所で異なる人物に起こる一見無関係な出来事が、ブレイクショットというキーワードを中心に繋がっていく様子を見事に描いてみせる。 登場人物がそれぞれの希望と苦悩を抱え、複雑な背景を持っているのだが、その沢山の要素が寄り集まってネットワークが紡がれていく設定の緻密さが圧巻だった。 そして物語の根底には、作者の現代社会への問題意識が息づいている。それはたぶん、世の中の出来事を単純化し、物笑いの種として消費することの軽薄さだと思った。 わたしたちの目の前にある物事は想像以上に複雑で、自分に関係したりしなかったりする人が思わぬ形で携わったすえに存在している。 それを自覚したとして、世界にどう向き合い、どう生きていったらいいのか? それに対する答えを、それまでの重たさからは想像できなかった、希望溢れる爽やかなラストで提示してくれた。
- 2025年7月29日きみに冷笑は似合わない。山田尚史叙情的なタイトルであるが、中身は極めて理性的なビジネスエッセイ集である。仕事に関連するさまざまな場面において、どのような知識を身につけ、どのような姿勢で振る舞うとよいのか、筆者の経験をまじえて紹介されている。特別に目新しい情報は少ないけれども、知的で明晰な筆致にふむふむと納得しながら読み進めることができた。
- 2025年7月24日方舟夕木春央ものすごい閉塞感と没入感で、目の前に薄暗い岩肌の壁と頼りない蛍光灯の光が見えるよう。それでいてスピード感をもってストーリーが進んでいくので、次は何が起こるんだろう?と気になってぐいぐいと読み進めてしまった。 クローズドサークルの物語であるため、終盤は結論の選択肢が絞られてきて少し先が見通せるような気持ちになっていたのだが、最後のどんでん返しは予測できず、仄かな希望の光が絶たれ目の前が真っ暗になる感じがした。これは面白すぎる!
- 2025年7月22日逆ソクラテス伊坂幸太郎伊坂幸太郎といえば『ゴールデンスランバー』をはじめミステリー作品のイメージが強く、本作はトリッキーなタイトルと複雑で精緻なイラスト、そして「世界をひっくり返す無上の全5篇」という煽り文句もあり、きっとスリリングでエンタメ性のある作品なのだろうと期待して読み始めたのだが、まったくの見当違いであった。 小学校を舞台に繰り広げられる物語は、まるで重松清作品のように道徳的かつ教訓的で、どんでん返しがあるかと思いきやちょっとした意外性くらいのインパクトであったり、なんとも肩透かしを食らった気分になった。この穏やかさで「世界をひっくり返す」はさすがに大げさというか、看板に偽りありではないだろうか。 巻末のインタビューを読んでみたら「20年作家をやっていてはじめての作風」「苦労しながら書いた」というようなことが書かれていたので、ああなるほど伊坂氏にとって挑戦となる作品だったのだなということは理解した。先に調べておくべきだった。
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