
たま子
@tama_co_co
2025年8月14日

ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ,
丹治愛
読書日記
コラージュ
「それでも一日の終わりにはつぎの一日がつづいてゆく。水曜、木曜、金曜、土曜と。朝になってめざめ、空を見、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会う。それから不意にピーターが訪ねてくる。それからあのばらの花。それでじゅうぶん。こういった一日の出来事のあとでは、死が、こういったことに終わりがあるなんて、とても信じられなくなる!どれほどわたしがこういったもののいっさいを愛しているか、世界中の誰にもわからないだろう。どんなに一瞬一瞬を愛しているか……」p218
舞台は、第一次世界大戦の爪痕残るロンドン。保守党議員の夫をもつダロウェイ夫人(クラリッサ)と、帰還兵でシェル・ショックを患う青年セプティマスという対照的なふたりと、その元恋人や友人、妻や夫たちそれぞれの意識へと移り変わりながら、ある一日を描く。
全体通してとんでもなく大すきな作品だけど、なによりもウルフの透徹した描写がたまらなくよかった。時に鋭く突き抜け、時に鮮やかで瑞々しい。近くから遠く、そして深く時間を浮遊していくシーンの数々。わたしは誰でもないけど誰でもあるような、視点が上に下に横に奥にあらゆるところへなめらかにすべるように移ってゆく、この時を駆けるふしぎな浮遊感に夢中になり、そういった文章に出会うたびに大喜びしていた。
過ぎ去る一日一日を生活の中に見失いながらも、時折失ったものを見いだす瞬間がある。たとえば空を見、すべてが同じ「時」を共有していると感じる瞬間。瞬間を憎み、瞬間を愛する。目の前にあるこれ、ここ、いま、から何十年も前の記憶まで。そのすべてのなかに愛するものがある。
クラリッサは、人生への無力感、生き抜くことへの恐怖を常に感じながらも、「もはや恐れるな」となんどもおもう。変わりゆくこと、変わらないままのこと。人生を喜劇として捉える力。他人から見える自分はあまりにも断片的であると気づくこと。妻でありかつては娘であり、ほんとうは何者でもなく、だけど世界はわたしのものだと受け入れられる、彼女のしなやかな強さに憧れる。
これはウルフをもっともっと読まねば!となり、あれこれ順番に読んでいて、とてもたのしい。『ダロウェイ夫人』は来年の6月にまた読みたいし、再来年もその次も読みつづけていきたい。
そしてそして、嬉しいタイミングで文學界がダロウェイ夫人特集!(じゅえさんいつも教えてくれてありがとう……)さっそく読みます。










