
おいしいごはん
@Palfa046
2025年8月16日

読んでる
借りてきた
これも図書館で借りてきた本。
自分にない視点が多くて面白い。
---
p.19で引用されている長島有里枝さんの発言
"長島さんが「当事者の切実な言葉を傾聴することが重要事項であることにちがいないのだけれど、『第三者には言われたくない』と思ってしまうような意見が存在することと、第三者が語る行為そのものを切り離さないと、何も言えなくなってしまうのでは、という疑問も湧きます」(『すばる』2018年9月号)と言っていた。第三者にも当事者性がある。"
たしかにそうだなと思いつつ、今読んでいるページでは子育てをしながら働いている人が、子育てを経験している人から「決めつけられる」経験について書かれており、当事者性という言葉の難しさを感じている。当事者の事の部分を抽象化すればするほど、その語りは多様になるだろう。そうなった時に当事者は一体どういう意味を持つんだろうかって思ったりした。






おいしいごはん
@Palfa046
p.112
"子どもがいる状態を見つけて、ようやくここまで到達することができましたね、と伝えるのを好む。結婚し子どもを持つという「普通」の生き方をしている人々は、その仲間入りを祝福する。多くの経験者が待ち構えている。未経験者は、つい、経験者を仰ぎ見る。
未経験者が「えっ、そんなの別に仰ぎ見なくていいのではないか?」と突っ込むと、その行為は訝しがられるのだが、自分とは異なる立場のことを想像して、意見してみるというのは、本来、優しい行為であるはず。それが、産む、育てるになると、ブロックされる。
不思議だ。"
ここに関しては疑問がある。当たり前とされていることを疑い、考え直すことに関しては(他の部分で触れられていることも含め)大事なことだと思う。
気になるのは、自分とは異なる立場のことを想像して意見してみることが優しい行為であるという部分。本当にそうだろうか。
他者からの眼差しは、自分の当たり前を壊すといった話は昔からある(例えば、シュッツ(1964=1997)など)。その当たり前が壊れることはかなりショックが大きいのではないかと思う。だから、しきたりに背くよそ者は嫌厭される。
他者に意見することは、優しい行為なのではなく、優しく行為する必要があるのではないだろうか。