
益田
@msd
2025年8月24日

いのちへの礼儀
生田武志
読んでる
「わたしたちがペットの犬や猫を「オスが産まれたらただちに殺処分する」「方向転換できない狭いケージの中で死ぬまで飼う」「二週間程度、絶食・絶水して栄養不足にさせる」「排泄物まみれの寝床で飼い続ける」「去勢手術を獣医師でない者が麻酔なしに行なう」としたら、飼い主であれペット業者であれ、重大な動物虐待として厳しく批判されるにちがいありません。
しかし、牛や豚や鶏へのこうした行為は問題にされません。なぜなら、牛、豚、羊、鶏は「愛護動物」(家族の一員)ではなく「経済動物」(資本の一貫)だからです。事実、こうした家畜たちは、人間の食糧になると同時にペットの「エサ」にもなります。キャットフードの「原材料」表示にある主原料には「鶏、牛、豚、サーモン」がよく書かれています。国産のキャットフードは、主に食品製造段階で出る人間の食用以外の部位が原料にされているからです。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震を通して、ペットについて「家族の一員」から「社会の一員」への転換の必要性が言われました。しかし、家畜動物はその意味での「社会の一員」とはみなされていません。
その背景の一つには、日本には「働く」家畜(役畜)は存在しても「食べる」家畜が存在しなかったという歴史的特異性があります。世界の多くの人にとって、肉食は「大事に育てた動物を、自分の手で屠殺して家庭や地域で食べる」というものとして文字通り血肉化していました。しかし、一二〇〇年の間、日本には「食べるための家畜をかわいがる(尊重する)」という関係は存在しませんでした。近代以降の日本人にとって、肉食は最初から「近代産業」として、家畜は単なる「食材」として捉えられたのです。」(p165-166)

