
saeko
@saekyh
2025年8月25日

「あの戦争」は何だったのか
辻田真佐憲
「歴史とはつねに現在からの解釈であり、現代の価値観が揺らげば、その評価もまた変わりうるということである」
「歴史とはやはりたんなる事実の羅列ではなく、一定の歴史観や価値観にもとづいて構成される物語でもある」
歴史とは、"在る"ものではなくて、"捉える"ものなのだと知った。
わたしが学校で教わってきた近代日本政治史は、一億総懺悔や自虐史観の流れを受け継いだものであったと思う。日本は中国や東南アジア諸国を不当に侵略し、アメリカに対して無謀にも奇襲攻撃を仕掛けて開戦するという過ちを犯した。それは軍部の暴走が招いた愚かな意思決定であったというものだ。
もちろん日本を一辺倒に悪として論じるべきとは思わないものの(原爆投下や、極東裁判の妥当性は人類が一生かかっても正当に評価できないと思っている)、日本が間違っていたと当たり前のように思っていた。
もちろん、戦争は絶対に肯定も正当化もされるべきものではないと堅く信じている。
しかし本書にある通り、当為(戦争は起こすべきではない)と存在(現実に戦争は起きる)を区別して考えると、日本が開戦に追い込まれた状況が、多角的な視点から浮かび上がってくる。
さまざまな仮定をもとに、当時の時代背景からして戦争に突入しないことは難しかった、もしくは戦争に参加しなかったとしても敗戦国ではない日本が冷戦下においても不戦を維持することは難しかったのではないか、というシナリオを想定することで、特定の人物や出来事に責任を付すのではなく、複合的な要因がわかちがたく絡み合い、当時の人々はその複雑さと不確実性の中をどうにかして生き抜かざるを得ない状況だったのだ、という捉え方をすることができた。
かつ、歴史とは常に逆照射して解釈することでしか語れないというのも目から鱗だった。
筆者は、東條英機が訪問した各国の博物館を訪れ、戦時下における日本との関わりがどのように評価されているかを調査している(この労力に心から敬意を払いたいし、その調査内容が1000円強で読めるというのはものすごく価値のあることだ)。
その結果として、国によってその位置づけや語り口が異なることを発見している。そこから、歴史の評価も単一ではなく、それぞれの国のナラティブによって多様化していることが証明されている。
これらの情報から得られたことは、歴史を単純化しないという姿勢だ。複雑さを受け入れ、右でも左でもなく、できる限り中間に立って物事を見る。そのうえで、いま自分が置かれている状況で、どのような物語を語るべきかを考えることが、過去の歴史と向き合いながら、少しでも建設的な未来のためにやるべきことなのではないかと思った。
