
はな
@hana-hitsuji05
2025年8月30日

ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか
山根純佳,
平山亮
読んでる
図書館で借りた
共著で男性の書いた章もあまりに的確な考察で読みながら何度も目が大きくなってる。
「僕は男でフェミニストです」の著者のことを思い出した。
家でも仕事でも感じることだけど、名前のついた業務(家事や育児)のメインだけ齧って、すごいやってる感とか義務を果たした感出してくる人にマグマが煮えたつことがある。
お正月に親族が集まると、子どもと遊んでお年玉渡して「良いおじちゃん」と大人気だった叔父がその家族からは冷たくされていたのを思い出した。
子どもの頃は訳が分からなかったが、今なら彼はその前後に発生する準備、後始末は何もせずに叔母やその娘(息子もいたけど)がそれらをして、日常的に自分はいいとこ取りして掻っ攫っていっていたのだなとわかる。
名前のつかないものも含めて家事・育児、ケアが上手くなるということはシンプルに否応なしに経験回数や場数が多いということであって、必ず性別によって生まれた時から得意・不得意のある分野なわけではないものね。
でも自分も含めてあまりにも当たり前に社会の意識やお約束が馴染んでいて、自分がしんどいのは自分の能力のせいだと思いがちだし、そこに価値や存在意義を求めて承認されるために知らず頑張っていたなんてこともよくある。
大体の人は、好きなことでもない限り仕事なら出来ることを無給でならやりたくないのではないだろうか。
他者が代わりに行った途端賃金が発生しているのに、なぜ自分がこれを率先してやることは無給扱いになるのか。
そんなに尊い仕事ならみんなが我先にと奪い合ってやるのかといえばいつのまにかみんなその場からいなくなっていることが答えなのでは。
逃げられないのは自分だけだ。
「母親なんだから」という言葉を聞くと嫌な気持ちになる時がある。
家族との繋がりも自分の人生の一部だが別に全てじゃない。
自分の母はもう一度同じ人生をやるか尋ねられたらイエスというだろうか。
だから既に出産、子育て、介護する側のレールに乗って走り始めた人を何か自分の出来ることを増やして助けたくて働いて納税して本を読んでるところある。
あの日々の母を助けなおしたいのかもしれないけど。









