
阿久津隆
@akttkc
2025年8月5日

トピーカ・スクール
ベン・ラーナー,
川野太郎
読んでる
読書日記
ジェーンとシーマが話していた。というかジェーンがシーマに話していた。シーマはいい聞き手だった。「すると、彼女の沈黙がつくった余白になにかが起こった」。
p.113
私の発話は壊れはじめ、感情の圧を受けてばらばらになり、前後の繋がりのない言葉の連なりになっていった。あなたが賞賛する何人かの詩人が私にはそう聞こえるような、あるいはペイリンやトランプの話みたいな、と言ってもいいかもしれない。それらの言葉を意味があるかのように、主張か情報であるかのように繰り出していた、しかも政治家たちが話すよりもはるかに速いスピードで。発話は消えていく意味を追いかけるように加速していった。まるで私が発作を起こしたみたいだった。シーマがついに、私がずっと「訓練(トレーニング)」という言葉を使っている、と指摘した。たとえばこんなふうに―「どうしてママがその絵をデボラにあげたのか、それは、私の訓練によれば―」そしてセンテンスの途中で止まり、まったく別のことについて話し出すの。
―なぜならそれが列車(トレイン)のなかで起こったから。
うっとり!
今日は朝と夕方と夜と3度この小説を開いているがなんだかやはりフィットし続ける感じがあってベン・ラーナーの核にある何かが僕に響き続けるのだろう。過去が組み替えられて現在の足場がなくなることへの恐怖とか、あるいは恐怖しながら魅せられる感じとか、なのか、あるいは、言葉が生きる支えになる感じとかなのか。
話はこう続いた。
p.113
私の話は、ある時点で話とはとても言えないほど切れ切れになった。声は弱まって嗚咽になり、私はその嗚咽に飲みこまれた。予兆はなく、筋痙攣みたいに無意識で、ショッキングなものだった。はじめはその嗚咽を笑っているような感じだった、晴れと雨よ、泣くときの唐突さと勢いにひとりでに笑い声が出て、やがてその笑いに完全に屈した。それに身を任せたとき、途方もなくほっとした―言語が純粋な音の響きになった。この言語は限界に達した、これからあたらしい言語が作られていく、シーマと私で作るんだ。