kei "暇と退屈の倫理学" 2025年9月2日

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@k3245
2025年9月2日
暇と退屈の倫理学
國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」読了。 2025/9 2冊目 ◎サマリ ①退屈のはじまりは定住生活?ウサギ狩りをしている者にウサギを渡したらどうか? ②我々は消費はできるが浪費はできない ③ハイデガーの論ずる「パーティーでの退屈さ」をベースに生きる ◎書評 一言で言えばもっと早く読むべきだったと感じた一冊。 遅くとも20代のうちに読み、退屈に対しての人間の考え方を学ぶべきだったと感じた。 退屈を知ることで楽しく生きることの難しさとその重要性を知ることができる名著。 ① 退屈のはじまりは定住生活?ウサギ狩りをしている者にウサギを渡したらどうか? この本には國分先生の多くの示唆が込められているが、中でも退屈の始まりを定住生活とする序盤の主張は印象的だった。 移住生活をいたときは必要なものを必要なだけ採取し、しばらく時間が経ったら移動をする。 一方、定住生活は農業生産をベースに加速度的な文明の発展を果たすのに適したスタイルであった。しかし、人々は「退屈」という原罪を背負うこととなる。 そして、パスカルが語るウサギ狩りの例え。 ウサギ狩りをしている者にウサギを差し出しても誰も喜ばない。ウサギを狩る行為をしているにも関わらずだ。 つまり、目的物なんてどうでもよくウサギ狩りのようなものは単なる暇つぶし→興奮を得るための行為として行っているのだとパスカルは主張する。 序盤のこの論理展開が美しすぎて國分先生の筆力に魅了された。 ② 我々は消費はできるが浪費はできない これも新たな気づきだった。 我々がやっていることは浪費ではなく消費だという。 浪費はひたすらモノを買っていくだけなので際限があるが、消費はモノの背景にある観念も一緒に買うので際限がなくなる。 資本主義経済ではこの観念の消費を供給側が意図的に実施している。 暇だから何かを買いたいわけでもないのにウィンドウショッピングに出かけてしまい、しまいには何かを消費する。 これは仕掛けられた罠なのだ。 ③ ハイデガーの論ずる「パーティーでの退屈さ」をベースに生きる 最終的に國分先生は「何かに際して退屈すること」、ハイデガーの言うパーティーでの退屈さと向き合うことこそ一番健康的な退屈への対処法だと語る。 ハイデガーの言うパーティーとは、パーティーそのものが気晴らしのものとなっており、そのパーティーに参加したとして楽しい思いをしても、なんとなく退屈を感じてしまうというものだ。 この状態は何らかの奴隷の状態ではなく、一番自律できていて余裕のある状態であるという。 この状態をうまく保ち、「楽しさ」を見出していくこと。 暇や退屈を感じつつも、その中で楽しむための訓練を行い贅沢を取り戻す努力をすること。 これこそが良く生きるということではないかと國分先生は語りたかったのだと思う。 色んな解釈でOK、どういったプロセスで何を考えたのかに注目してほしいと國分先生も結論で語っている。 自分もこんな大学の先生に哲学を習ってみたかった。
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