
noko
@nokonoko
2025年9月5日

野生のしっそう
猪瀬浩平
買った
読み終わった
心に残る一節
それぞれが思い返した出来事は、他の人と共有されるものではなく、あくまで個人的なものだ。同じ場所で思い返すものは、わたしと隣の乗客でほとんど重なることはない。だから、そうやって思い返す行為は孤独である、とオジェは書く。ただしこの孤独は複数の孤独でもある。わたしと同じように、車内で隣り合わせる人びとが同じように孤独な生を生きていることを想うとき、孤独であるわたしと孤独である隣人との間に、かすかな連帯が生まれる。オジェはそれを「孤立なき孤独」という(オジェ2022:65)。
介護認定が終わって、父と会話をしながら、そうやって理不尽なことに怒るのが、もう父ではなく、わたしになっていることを思った。
兄は家族に心配されているようだけれど、実は家族を一番心配しているんだよ、ほかの障害のある人もみんなそうなんだよ
(兄が)叫ぶことを止めようとしていたわたしは、いつしか叫ぶことができるのに、叫んでいない自分に気づかされた。同じように、わたしは兄がいなくなってしまったのを失踪と片づけようとした。だが、兄の行く先を知った時、疾走できるはずなのに、疾走していない自分自身を突きつけられているように感じた。
植民地支配する側とされる側、人種、性差といった違いの中で、他者の沈黙の口に言葉を与えてしまうことーそれは、多くの場合、全員によってなされるーの暴力にふれたこの論文を読みながら、わたしは兄の言葉を代弁できるのかということを考えた。
わたしの経験を兄の経験と重ねること、兄の経験をわたしの言葉で語ること、そのことに何の疑いも持たなくなってしまったときに、わたしは兄を代弁するようでいながら、兄の言葉を奪うことになる。
言葉を奪うことなく、ともにあることができるのかということを、私はそれから考え続けていたのだ、と今、思う。わたしが感じた苦痛と、兄が感じた苦痛は別のものであるが、どこかでつながっている。
つながっているところと、ずれているところと、その両方が重要である。
兄はここ数年、よく涙を流すようになった。…泣いているときの兄は、本当に悲しそうだ。それは兄にとって、帰るべき場所、帰りたい場所がなくなってしまったこと、かつてのような場所でなくなったことを悲しんでいるようにわたしは感じる。そしてそれは、わたし自身の内側にある想いでもある。
生きることの切なさとは、かつてそのただなかにあったものが徐々に、しかし、確実に失われてしまうことだ。その耐え切れない切なさに対峙しているもの同士として、孤独なわたしたちは初めて、それぞれの世界を重ねることができる。

