
いっちー
@icchii317
2025年9月5日

なぜ人は自分を責めてしまうのか
信田さよ子
読んでる
フーコー曰く「権力は状況の定義権」、つまり「いまの状況を定義できるのは、僕だけ」の状態。(p97)「家の中は裸ね」と言ったらそうなってしまうような。そうして、世界そのものを作り出されてしまうと、逃げるということが、宇宙船から、宇宙に飛び出すようなものでとても怖いことになる。DVの本質。
愛情と見分けのつかないような形の支配はどこから来るのか?
→あらゆる支配の背後にはトラウマ的なものがある。
PTSDの診断基準の「再体験」「解離・麻痺」「過覚醒」のうち「解離・麻痺」が共依存と深いつながりがある。はたから見るとすごい辛い状況下にあるのに、本人は変える気がないような。
日本の女性にとって共依存はありふれていて、共依存的でないことをすると風当たりが強くなるぐらい。
(3章)罪悪感の正体はどこにあるのか?
→世間や常識なのではないか。
参考書籍『母性愛という制度』→母性や実子主義が明治以降に構築された。
(この辺の例がえぐい…。)
母性の条件
・女性は、みんな母親になるものだ
・母親は実の子どもを愛するものである
・子どもは、みんな実のお母さんの愛を必要とくる
母性愛は、「愛」と「自己犠牲」のふたつを柱にきている。(これらを要りませんと言うと人でなしになる笑)
エディプスコンプレックスに対して、日本は阿闍世コンプレックスらしい。「お母さんが女だって?そりゃないだろう」らしい笑前者と対照的に後者には父が不在、母子のみの関係。その固定化されたイメージが今も脈々と受け継がれている(DV加害者の男性が妻にお母さんを求めていることもあったり、男性の精神科医が女性に「だって、あなたお母さんでしょ」と言ったり)
子どもを産んだとたんに母性愛を発揮しなければいけない母の恨みが娘に向かう(!)
「こんな理不尽さを生きている私は、あなただけがのうのうと自由に生きることを許さない」(p124)=ミソジニーそのもの。女性自身も内面化している
読んでると、なんというか、構造で無理を押し付けると、必ず歪みが起きるんだなと思った。無償の愛という尊いものの裏側にミソジニーがあるなんて。。。
なぜ自分を責めるのか?
→背負わなくてもいい責任(親への責任)をずっと背負ってきた人が抱くもの(p126)
罪悪感は第三者の介入によって救済される!
本来は最良の第三者は父であるべきだけど、日本においては「父の不在」という名の父権主義である(by『母性愛という制度』)
→ケアをしてこなかった父親にも責任がある
・反出生主義が流行ってるのを「どれだけ多くの家族が虐待的だったのかと思います」と書いてある。こういうことなのかな?
・『反共感論』という本の話にも繋がる。弱い人がいた時に思わず助けたくなるような共感を「情動的共感」と呼ぶけどそのことがこっちの本にも書かれている。それは「人間の文化であり、権力であり、尊厳である」。(p137)だから、赤ちゃんが泣いてる時になんとかしなきゃと思うのは母性愛というよりも「母親の尊厳」(p138)
これは名言だ。母性愛というものは存在しない、と言い切っちゃってもいいんだ。母性愛がなくても、赤ん坊を育てるのは、母である以前に人間の尊厳なんだ。そして、だんだんと手が離れるようになっていくものなのだ。
そう言ってみるとたしかに、共依存の一つが過干渉だったけど、それって人間の文化とか本能的なものではない。やっぱりそのケアはやり過ぎに値するし、そこにはエゴとか、歪みが含まれてれるよなぁ。
『母親になって後悔してる』を読んで結構スッキリした(母親にならねばならないという圧力の説明がついた)けど、この本もだいぶスッキリ。母性愛がなくても、子どもを育てることができるし、「愛という言葉を使わなくても、人は十分に人を大切にすることができる」。

