
ねこ
@notoneko25
2025年9月7日

ふだんづかいの倫理学
平尾昌宏
読んだ。友人と出かけた時に一目惚れ
「自我」が出来てくると言っても、それは「自分」の素みたいなものです。それだけでも、何とか生きることはできるかもしれない。これが自立というヤツです。しかし、それでは足りません。何が?そう、それではまだ「単に生きる」だけで、「よく生きる」ことができているとは限らないからです。
「社会の中でよく生きる」や「身近な関係の中でよく生きる」は、自分だけでは決まりません。
他の人との関係の中で決まってくるものです。でも、「自分がよく生きる」は、自分一人だけのものです。そして、それはあらかじめ決められているものではありません。とすると、どうするのか。それは、自分で決めるしかありません。これが自律と呼ばれるもので、積極的自由の中身です。
それに対して、積極的自由というのは、「自分への自由」でした。「自分」は、他の人によって決められるものではありません。それを決めるのは自分自身でしかありません。だから自由なのだし、積極的で前向き、中身に関わるものなのです。
今さらですが、「正しさ」というのは、基準から外れると間違っていて正しくない、ということです。当然、最低限そうした規則や法則に従うべきである、従わなければならない(つまり、義務だ)、ということになります。だから、我々の言う守りの倫理は一般的に義務論と呼ばれます。
一方、攻めの倫理と呼んだのは、もっと積極的に攻めに出ます。もちろん「善」、「善さ」を目指して。目指すものとは、つまり目的。だから、こっちは目的論と呼ばれる。
我々は「正しさ」では幸せにはなれないけれども、「幸せ」であればそれで十分です。でも、幸せを得るためには、やっぱり最低限の条件が必要です。