萌英 "すべてがFになる" 2025年3月15日

萌英
萌英
@moenohon
2025年3月15日
すべてがFになる
「西之園君」犀川は振り向いて萌絵を見た。こんなにてきぱきとものを言う犀川を、萌絵は今までに見たことがなかった。「256と256のかけ算をして」「65536」萌絵は即答した。どうして、こんな計算をしなければならないのか、彼女には理由がまるでわからない。 「よし…」犀川は萌絵をじっと見た。萌絵が初めて見る、厳しい屋川の表情だった。「いいかい?西之園君…。一昨日の午後七時から、65535時間まえはいつ?」「え?」萌絵は聞き直した。しかし、犀川は黙って彼女を見ている。 萌絵は呼吸を止めて、目を閉じた。 19を引く。24で割る。余りを覚える。今は八月…閏年があって…。 計算には八秒くらいかかった。犀川に見つめられていると思うと、いつもの彼女の実力は半分も出せなかった。 「七年まえの…二月十日の…午前四時です」 「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」犀川は突然話し出した。「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、もともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ・・..。つまり、日本は、液体の社で、欧米は固体の社会なんですよ。日本人って、個人がリキッドなのです。流動的で、渾然一体になりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。 どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している…・・・・・。ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」 「死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ」四季は言う。「苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」「おっしゃるとおりです」屋川は頷く。それは自分も同感だった。 では森博嗣の本質はどこにあるのか。何が森博嗣の小説を「理系」たらしめているのか。 それは認識やリアリティに対するアプローチの仕方なのである。 森博嗣の作品は、ほとんどすべて、個人の認識や個人が感じるリアリティへの懐疑の視点が立脚点になって成立している。皆が正しいと思っているものを私たちは盲目的に正しいと肩じ、それを己の規範にしてしまいがちだ。だがそういった「常識」すらも一日己の頭を使って検証してみること。目の前に与えられたデータを客観的に見つめること。これらの行為は極めて真っ当であるはずだが、私たちは往々にしてそのことを忘れてしまう。しかし森は常にこのアプローチを忘れない。このアプローチが存在するからこそ、森の作品は理系として位置づけられるのである。
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