
本屋lighthouse
@books-lighthouse
2025年9月10日

九月と七月の姉妹
デイジー・ジョンソン,
市田泉
読み終わった
映画を観た
オンライン試写でみる→パンフレット読む→原作読む→劇場でみる、という不思議な順番で楽しんだ。文学研究畑なのでこれで正解だった。
試写のときは「不穏」に支配されていた感覚があったのだけど、ジュライとセプテンバーとシーラになにが起きているのかを知ってからみると、「不穏」はどこかに消え、代わりにやってきたのは「痛み」だった。いや、どちらにも「痛み」はあったが、種類が違う気がする。もう一度みたらまた違うかもしれない。DVDになったらまたみようと思う。
このさきネタバレあり。
٩( ᐛ )و
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原作では母のシーラもまたジュライ同様にセプテンバーの幻影とともに生きているような描写があり、その描き方が映画よりも強かった。映画はもう少し、シーラはセプテンバーが死んでいることを受けとめている空気が強い。つまりシーラがジュライを見るときの感覚は、映画や原作を通してなにが起きているかを知っている再視聴/再読の者が見るときの感覚と近いのかもしれない。初見時はジュライの目線で世界を見るが、二度目以降はシーラに近くなる。
セプテンバーを含めた世界に支配されることから生じる「痛み」をジュライは感じていて、それを初見時の私も感じていたのかもしれない。ジュライにとってはそれらははじめての経験で、他者に支配されることもだれかが死ぬことも支配から束の間解き放たれることも、はじめてのことであるがゆえに「不穏=不安」を覚えるのかもしれない。今回、シーラ寄りの感覚で見ているときには、それらはすべて経験済みのことで、その不穏や不安、痛みを「私は知っている」ということから生まれる痛みなのかもしれなかった。シーラは親や夫に支配され、死別し、束の間解き放たれる経験をしている。「ジュライになにが起きているか」を知っている者として、視線を共有していたということか。









