
草大福
@yadokari15
2025年9月18日

暇と退屈の倫理学
國分功一郎
読み終わった
時間かかったが読み終えた。途中流し読みのところもある。感想を述べられるほど咀嚼できていないので、印象に残った部分をメモとして残しておく。
家にじっとしていれば安全なのになぜわざわざ人は外に出てしまうのか。退屈が我慢ならないから。ウサギ狩りに行く人に、ウサギを手渡したら、きっと嫌な顔をされるだろう。なぜならウサギが欲しいのではなく、ウサギを追いかけて一日中駆け回り、退屈から逃れ気晴らしをするのだ。
今では暇人という言葉はネガティブな意味で使うが、かつては暇があることに高い価値があった。財産があり働く必要がない有閑階級。富を持つものは自分たちで生産的活動を行う必要がない。やるべき仕事がない。暇は明確なステータスシンボルである。有閑階級は暇を見せびらかそうとする。
有閑階級が没落したあと労働者階級は余暇の権利を得る。
『労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そう言った証拠を提示することを誰もが催促されている。』
『余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。』
→これがすごく現代のSNSやら推し活やらに通ずるところがあると思って印象に残った。
退屈にも種類がある。第1形式「退屈していて暇がある」第2形式「退屈しているが暇はない」第3形式「なんとなく退屈」


草大福
@yadokari15
後半は私の頭が悪すぎて全然理解できなかった……。無念である。
そうそう、最後の方で「砂の女」のことを思い出したのだった。あの話は暇ではないが退屈である。だったと思う。でも途中で主人公がラジオや水といった「欲しいもの(求めるもの)」を手に入れたことで、退屈をやっつけることに成功したのではないだろうか。