
くりこ
@kurikomone
2025年9月26日

わたしが誰かわからない
中村佑子
まだ読んでる
幼少期から暮らしてた叔母は八年前に亡くなった。彼女との思い出は正直に言ってしんどいことがとても多かった。重度の障害を抱え、排泄着替え食事の介護を家族で担い、医師には医療を断られ、彼女の「問題行動」に振り回されていつも家は内戦だった。
いつも私の中で彼女が生きてた時間は混沌としててパズルのピースがバラバラになったように散らかっている。私がフェミニズムや、家族をテーマにした文献をよく読むのもその時間を整理したいと言う思いがある。
精神疾患の母を持つ著者がヤングケアラーをインタビューして自身の体験に向き合う本。
他人の意思を先回りして自分の意思より尊重してしまう癖、ケアしてる人との境界が曖昧になり自分がわからなくなること、もう死ぬのではないかと言う目に遭っても少しの日常会話で平安が訪れる家族の不思議な力学についての言及など、
私と似通ってることが多くて自分自身が浮き彫りになる。
なにより、他の人の方がもっと大変な目をしてるのではないかと言う思いや、自分は家庭内で被害者でもあり加害者でもあることの負目から、自分が「ヤングケアラー」と言っていいかわからないと言う著者と同じ思いを私も持っており、重度障害の家族がいたとは話せるけど、ヤングケアラーだとは表明できない。私が、ヤングケアラーと言った途端、「家族をダシに使ってる」気がしてしまう。
自分の状態を表明することを家族のしがらみによって憚られること、大変息苦しく日本の家族の閉塞感を示してるように思う
p.96
<とくにどこかでできてしまった傷、えぐられるような傷を自分のなかに感じているならなおさら、語られないことのほうが重い、語られないことのほうに意味がある。こうして一生懸命に書いているが、ここで語れないこと、語りたくないことのほうに圧倒的に意味がある。語らないことで、心が落ち着く。語れば落ち着かなくなり、それを無理やり落ち着けようとして、無理な着地点を探して、安っぽく類型的になる。>



