
かくり
@kakuri000
2025年9月30日

ふたり暮らしの「女性」史
伊藤春奈
借りてきた
ちょっと開いた
第1章、女性初のメダリスト・人見絹枝と藤村蝶の「ふたり」を読んだ。当事は「エス」という言葉の流行りもあって、ふたりの関係は "ゴシップ" 的に話題の的になり、消費されてしまう。スポーツ選手としても「女の選手」として色々なものを背負わされ、自らも背負う事にもなってしまう苦しさ。
しかし、ふたりの関係は、他者には分からない深い絆があるのも確かだった。
"なお、いまの民法では祭祀権を「慣習に従って」継承するとされ、家制度なきいまも「墓を継ぐ=家を継ぐ」という旧来の考えが、まさに慣習として根づいている。こうしたことを踏まえると、絹江と蝶の墓は、当時の制度とも規範とも遠く離れたところ、いや対局にあったといえるのではないか。
絹江の意志を蝶が受け取って本覚寺に絹江が眠り、そして約七十年後に蝶の遺志で同じ墓に入った。そのことの意味を廣田住職にきいてみると、冒頭に紹介したように、「あそこには人見さんと、藤村蝶さんしか、入っていない」と、特異性に言及していた。またこうも述べていた。
──「〔藤村さんとしては〕ずっと人見さんと一緒、という感覚だろうと。とにかく、人見さん自身が『死んだら藤村さんのお墓に入りたい』と言ったのがはじまりですから。それがこの寺に遺骨があるゆえんです。最初のきっかけをつくったのが人見さんだし、そこまで言われなかったら遺品まで全部、岡山に行ってるんじゃないかな」。
廣田氏は、ふたりが一般的にいわれる「友だち」「親友」という感じではないとしつつ、「誰にもわからないくらいの強い絆で結ばれていたのではないでしょうか」「〔人見さんが亡くなってから七〇年も思いが続いたということは〕わたしらには計り知れないものだと思います。"
"「〔養子にしてくれというのは〕よっぽどのことですよね」とのことだった。"
【伊藤春奈『ふたり暮らしの「女性」史』講談社,2025,p.72-73】
74ページに掲載されている、蝶が1979年に残した言葉も良い。
あとまだ第2章、第3章と続くのだけど、読み切れそうにないですね…(明日返却します…)
