DN/HP "砂漠が街に入りこんだ日" 2025年10月1日

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2025年10月1日
砂漠が街に入りこんだ日
砂漠が街に入りこんだ日
グカ・ハン,
原正人
集中してじっくり読書をする余裕やタイミングがない日々というのも日常のなかにはあるのだけど、そんななかで出がけになんとなくバッグに入れてきた短編集の冒頭の一編を電車での移動時間にちょうど読み終わった。集中して読んでいた。ホームでバッグに仕舞いながらため息が出た。本当に素晴らしかった。この一編に救われた。と思いたい短編小説だった。 数日後の少し落ち着いたタイミングで、もう一度冒頭から読み始める。やはり素晴らしいと思った。日常という言葉には平穏なイメージがある気がするけれど、そこにも当然、苦悩や混乱だったり怒りや哀しみなんかがこびり付いている。それらを抱えながら過ごすのが日常なのだとも思う。この短編集で物語られる架空の都市の登場人物たちもそれらを抱えて“日常”を生きている。彼女、彼が感じている苦悩や混乱、怒りや哀しみには覚えがある。覚えがあるから、わかる、とも思った。けれど、それが物語になると、あるいは物語られる意味には、やはりわからなさがあった。他人の人生、日常がそうであるのと同じようにわからなかった。解決や答えを求めずに読む物語に感じるそんなわからなさを、大切に思いたい。他の誰かがこの短編集を読んでわからなさを感じたとしても、それは多分今感じているものとは全く別のもので、これはとても個人的な自分だけのものだから解釈や理解の前にまず大切に「抱きしめ」たい。素晴らしい小説を読んでそんな風に思えるものを手に入れられたから、救われたと思えたのかもしれない。 四六時中イヤフォンをつけ続けることで雑音(あるいは世界)から身を守る登場人物の行動にも覚えがあった。多少ショッキングだけれど、尊重したいこの物語のことは、少し“わかった”気がする。今もイヤフォンをつけて、隣から聞こえる物音や話し声から身を守りながらこの文章を書いているから。流れているのはMOBB DEEPのHELL ON EARTH。ここに脈絡は多分ないけれど、「私は音楽が周囲のすべてに魔法のような力を及ぼしているのだ」と思うことにした」。 韓国語を母語とする作家が新たに習得したフランス語で書いた小説。というのは、この本を手に取ったきっかけのひとつだけれど、訳者解説にある作者が語ったその理由にも納得出来た。 それは、言語という多くの人が既に持ち使っていることだから特別に思えるのだけれど、自らの表現に適した言語を習得するということは、言語以外にも自分の表現したいものに適した方法、楽器の演奏や絵画表現の技術なんかを習得することにも近いのかもしれない。既に持っている言語が自分の表現したいもの、あるいは方法と必ずしも一致しているとは限らないというのは結構納得出来る話な気がする。それでも、既に持っているもので表現しようと試行錯誤することにも価値があるというか、そうすることで生まれる素晴らしさもあるのだとも思っていて。それは、この作者が言う新たに習得した言語のつたなさのようなものが表現を後押しするということとも繋がっている気がする。
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