おこめ
@ufufu305
2025年10月4日
ラインズ
ティム・インゴルド,
工藤晋
読み終わった
これまで自分が考えてきたこと、なんとなく窮屈な思いを言語化してくれたような本。世の中が直線化しすぎていること。それは、街の作りから、生き方に至るまで言えることだ。
学校や会社は、狭い通路、隙のない部屋。自由に使えるスペースを極力省き、余白のない直線的な空間がひしめき合う。そんな空間が凝縮されているのが都市である。
私たちはその中で、一つの目的や目標を「定め」、それまでの最短距離をまっすぐ進むことに慣れてしまってはいないか。
フリーハンドで完璧な直線を引けないように、まっすぐ歩いているつもりでもいつの間にか曲がっているように、私たちは曲線の中にいるのが自然である。
右往左往しながら、立ち止まり、歪み、迷っていいと、この本が励ましてくれた気がする。
ラインが途切れるのは死を迎える時のみであり、その時までラインは曲がりながら伸びていく。
「実のところ、居住という縄細工の触手を逃れられるものはない。どこまでも広がろうとするそのラインが、これから広がり進行するかも知れないあらゆる裂や裂け目に探りを入れているのだ。生は何かに収まろうとせず、自分と関係する無数のラインに沿って世界を貫く道を糸のように延ばしていく。もし生が境界線のなかに押し込められないものだとしたら、それは囲われるものでもないだろう。では、環境という概念はどうなってしまうのか?文字通りの意味では、環境とは囲うものである。だが居住者にとって環境とは、境界を設置されるという状況から成り立つものではなく、自分の使ういくつかの細道がしっかりと絡み合った領域から成り立っているものだ。この絡み合いの領域ー織り合わされたラインの網細工ーには内部も外部もない。在るのはただ隙間や通り抜ける道だけである。」(p.165-166)
おこめ
@ufufu305
私たちが住んでいる世界は、きちんと秩序づけられたシステムに収まりきらない豊かな線状性を示している。実のところ、世界はまさに、人が押し付けようとするどんな分類からも常に身をくねらせるように逃れ、あらゆる方向へ緩やかに延びていくさまざまなラインなのだ。(p.89)
現代の大都市社会に住む人々は、さまざまに連結された要素が組み立てられて出来ている環境に自分たちがいることをはっきりと自覚している。しかし実のところ人々はそうした環境のなかでも自らの道を縫うように歩み続け、歩みながら小道を辿るのだ。人々がどうやって自らが留まる環境をただ占拠するのではなくそこに住みつくようになるのかを理解するためには、組み立てというパラダイムから歩行というパラダイムの分析へ戻ってみる必要がある。(p.123)
散歩に出かけるラインのように、徒歩旅行者の小道はあちらこちらに進んでゆく。方々で中断してからまた先に進むこともある。その小道には始点も終点もない。道の途中において、彼は常にどこかの場所にいる。しかしすべての「どこか」は、別のどこかへ行く途中にある。
住まわれた世界とはそうした踏み跡の入り組んだ網細工であり、生がそれらの踏み跡に沿って進んでゆくにつれて絶え間なく織られ続けるものである。それに対して、輸送は特定の場所に結びつく。すべての移動は人や人の財産を別の場所に移すためのものであり、特定の目的地に向かう。旅行者はある場所から出発して別の場所に到着するが、そのふたつの場所のあいだのどこにも存在しない。全体としてみると、輸送ラインは点と点を連結するネットワークを形成する(p.135)
知とは、現実には誰にとっても、何かを横断しながら築き上げられるものではなく、何かに沿って前進しながら育つものである。おそらく、近代の大都市に住む人々の困難を真に特徴づけているのは、明らかに占拠の目的で計画され築かれた環境に居住することを強いられる点である。大都市では、建築物および公共空間は包囲し収容する。(p.165)
実のところ、居住という縄細工の触手を逃れられるものはない。どこまでも広がろうとするそのラインが、これから広がり進行するかも知れないあらゆる裂や裂け目に探りを入れているのだ。生は何かに収まろうとせず、自分と関係する無数のラインに沿って世界を貫く道を糸のように延ばしていく。もし生が境界線のなかに押し込められないものだとしたら、それは囲われるものでもないだろう。では、環境という概念はどうなってしまうのか?文字通りの意味では、環境とは囲うものである。だが居住者にとって環境とは、境界を設置されるという状況から成り立つものではなく、自分の使ういくつかの細道がしっかりと絡み合った領域から成り立っているものだ。この絡み合いの領域ー織り合わされたラインの網細工ーには内部も外部もない。在るのはただ隙間や通り抜ける道だけである。(p.165-166)
要するに、過去とはいつも時のはるか後方に取り残された点の連続のように次第に消えていくものではない。そんなものは一度きりの事件の連なりとして、回顧的に再構築された歴史の幽霊に過ぎない。現実には、過去は私たちが未来に分け入るときに私たちとともにある。その切迫した状況において、記憶の作用は見出される。記憶の作用は意識の導き手であり、どんどん前進しながら道を思い出すのだ。さまざまな過去の生のラインを辿り直すことは、私たちが自らのラインに沿って進むための方法なのである。(p.187)
定規を使ってラインを引く行為はフリーハンドでラインを描く行為とは明らかにまったく異なっている。ジョン・ラスキンが指摘したように、フリーハンドではーもっとも熟練した者であってもー曲がったり方向がぶれたりしないラインを引くことはできない。「優れた製図工は、直線以外ならどんなラインでも引くことができる」とラスキンは述べた。だからラスキンは、絵を志す初心者が直線を引く練習をすることは無益だと考えた。(p.246)
ラインとは無限なものである。そしてその無限性ー生命、関係、思考プロセスのーこそ、その価値を感じて欲しい。(p.256)
ラインは生命のように終わりのないものなのだから。重要なのは終着点などではない。それは人生も同じだ。面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。(p.258)