
ゆうすけ | オガノート
@ogayuppy
2025年10月4日

モモ
ミヒャエル・エンデ,
大島かおり
読み終わった
言わずと知れたミヒャエル・エンデ著の名作。ずっと昔、小学生時代に一度だけ読んだことがあって、全体を通して「すごく面白かった」ことと、なぜか「時間停止状態において宙に浮いた綿毛までも衝突物になる危険性」が印象に残っています。
なぜ読み返そうと思ったかというと、最近ChatGPTに日記を読ませていたらふと、
「あなたの日記からは『モモ』を思い出しますね。」
と一丁前な感想を言われまして。
確かにここ数日、「自分にとっての時間との向き合い方」みたいなことを考え続けていましたが、「『モモ』ってそういう話だったっけ?」となり、思い出すために実家から回収してきました。
岩波書店のハードカバー、1995年の52刷。全面的に日焼けした古い本ですが、装丁が頑丈なのか今でも気を使うことなくページをめくれます。
上記のような漠然とした記憶しか残っていなかったのですが、「ジジ」や「ベッポ」といった主要人物の名前の響きは覚えていて、古い友人と再会した気分。ずっとこの本の中で、登場人物たちが読まれるのを待っていたんだと思うと胸が温かくなります。
読み返してみて、なるほど、これは「時間」の本だなと。もちろん「時間どろぼうとの戦いの話」という大筋ははっきり覚えていましたが、物語の合間合間にこんなに時間への示唆が含まれていることを改めて知りました。(当時の僕は、時間に関するこの言葉たちをどう受け止めていたんだろう?)
都会を中心に、灰色の時間どろぼうたちに奪われた人々の「時間」を、モモという少女が取り戻しにいく――名作なのであらすじはこの程度に。
いくつか、2025年現在の僕の心に響いた言葉たちを紹介します。一応、自分でも場所を忘れないように章を記しておきます。
「時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。」
6章「インチキで人をまるめこむ計算」
6章の冒頭にミヒャエル・エンデからの語りかけのような形で提示されるメッセージ(あとがきではこれも謎の人物からたくされた話だということにされますが)。
心があって初めて時間は輝くということなのでしょう。これは後半に出てくる「時間の花」にもメタファーとなって表現されます。
「時間を感じとるために心というものがある」
12章「モモ、時間の国につく」
一つ前と似ています。景色を目で見るように、音を耳で聞くように、時間を感じる主語は心だということ。
「人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。」
15章「再会、そしてほんとうの別れ」
ジジが時間と引き換えに手に入れた身の丈に合わない自身の名声についてつぶやきます。「時間」についてではないのですが、この歳になるとなんとなく突き刺さる言葉。
夢は目標ではなく手段であるべきなんだなと。具体的な目標があっても、大事なのはその後に手に入る「心」が本当に欲しいものなのかどうか。それが描けていないと、夢だけ手に入った抜け殻になってしまうのかもしれません。
「お前の人生の一時間、一時間が、わたしのおまえへのあいさつだ。わたしたちはいつまでも友だちだものね、そうだろう?P326」
19章「包囲のなかでの決意」
マイスター・ホラが、モモとの最後の別れの際に交わす言葉。
ホラは「時間」それ自体であり、「わたしたちは友だち」であるとモモに語りかけてきます。
いつしか山で感じたこと。それは「自分が生きているから時間が進む」という感覚。僕と時間が対等な関係であるということの自覚。
それはさらに深化させると、「時間と友達になる」ということかもしれない。過ぎ去っていく冷たいものではなく、隣にいる温かい存在として向き合うという、時間との理想の関係性をそっと示してくれたせりふでした。
さて、2025年の僕はこのような言葉たちを心に掴むことができましたが、つくづく小学生の僕はこれをどう読んだのかが気になります。割と大人でないと理解できない比喩も多い。
今回、一番考えさせられたのは、「時間どろぼう」の概念が時代を経て変わってきていることです。
現代において「時間どろぼう」という言葉で思い浮かべるのは「SNS」「ネットゲーム」「YouTube」といった、「思いがけず長時間費やしてしまう暇つぶし」でしょう。
しかし、これが書かれた1973年(日本でいうところの高度経済成長期)は、時間どろぼうが「無駄な時間の削減」「合理化」という言葉で騙し取っていたのは人々の「余白」なのです。
時間どろぼうの盗む対象が変わったと言うより、盗まれる側の認識が変わったということでしょう(「盗まれる」というより「盗ませている」に近いかもしれません)。
「合理化」「タイパ」が(異論はあれど)正義とされている現代を見ると、時間どろぼうの仕事は残念ながら成功したと言えるかもしれません。
ちなみに「余白」とは言え、「SNS」「ソシャゲ」をモモの中における「大切な時間」と結びつけづらいのは、僕の思考(嗜好)もあるのでしょうが、物語の中で盗まれていたのは「分かち合う時間」という側面が大きいのかなと。モモは、時間を分け与える存在として作中で輝いています。
誰かと話す時間、笑い合う時間、そうして時を忘れる時間――これらが「時間の花」を咲かせるのでしょう。それを上記のもので満たせるならそれは「大切な時間」に値するのでしょうが……僕が惰性で連続再生させてしまっているYouTubeに関しては、これはもう時間を奪われているというか、自ら投げ捨てている行為だなと……
時間は支配するものではなく共存するもの、共有するもの。盗まれないように肌身離さず、心に時間の花を咲かせて生きていたいものです。
またいつか読み返すことを信じてーーモモ、ジジ、ベッポに「またね」という気持ちで本を閉じました。
本当に、「良い時間」でした。





