
あむ
@Petrichor
2025年10月12日
人間標本
湊かなえ
読み終わった
「途中で読むのをやめようかと思ったけど、最後まで読んでよかった」
そんなレビューを見て、私はこの本を手に取ることに決めた。
読了後に溢れ出る感動でも絶望でもないこの感情が、この本を手に取って本当によかったと、猛烈にそう思わせる。
同時に、1つ1つの章が、それらを構成する言葉が、文字が、この順番この内容でなければそうは思えなかっただろうとも思う。
全てが、正解。
これが湊かなえ先生が湊かなえ先生たる実力かとひれ伏す気分である。
以下ネタバレ含みます
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今思い返せば全てが出来すぎていた榊史朗著の人間標本。湊かなえ先生の作品はよく映像化されているから、これを映像化したいという者が現れたら、制作に関わる者が皆究極の芸術の狂気に酔ってしまうんじゃないかなぁと呑気なことを考えていた。
それに対するSNSの評価を読んでいるとき、そこではじめて、話題の中で自分がその手記を読んでしまった民衆の追体験をさせられていたことに気づかされた。しかもこともあろうに、添付された写真から先に見てしまったという、最悪な形で、だ。映像化云々などと考えていた私のこの姿でさえも、湊かなえ先生の世界の一部、登場人物だったのだ。
そして、至の自由研究。息子である至も父親と同じ観察眼を持っていたということか、などと思ううちに徐々に怪しくなる雲行き。まさか、そうはなってほしくない、と最悪の事態を想像しつつもそうならないことを願いながら読み進める気持ちは、史朗と同じだったのかもしれない。
そして全ての答え合わせがされる、独房、面会室。
最後の解析結果は、救いだったと思う。
父親が罪を被り自分を手にかけることを見越して、自分が亡き後も父親を守る至。
斧を振り下ろすその瞬間、人間ではなくなったと、そう思わなかった者はいなかった。
究極の芸術のためなら殺人は必然だと、史朗はそう創作したが、
史朗も、至も、杏奈も、
殺人をしたという自責の念に苦しめられていた。
史朗が至に杭を打ち込んだ衝撃がずっと身体にまとわりついているように。至が自分を標本にしてほしいと望んだように。杏奈が出来上がった作品を「おぞましいだけのもの」と評したように。
では、留美はどうだったのだろうか。
全ての首謀者でありながら唯一斧を振り下ろしていない留美は、自分がもし作品作りを自分の手で実行できていたとき、どう思ったのだろうか。
「人間標本」という狂気の芸術を、
実は誰も狂気のままに完成させていない。
それがまたこの物語の美しいところなのだろうなと思った。
