チャモピーピーチャマ "ヘーゲル「精神現象学」3月" 2025年10月15日

ヘーゲル「精神現象学」3月
・「精神」、人というのを関係性のなかに読み解くという基本的な態度はケアの倫理とかとも相性がいいんだろな(逆か、ヘーゲルとかのコミュニティ主義的な考えがケアの倫理の基盤をなしているのか) ・アウフヘーベン 折衷案というよりも立場の転回についての説明だった。(善悪、主従とかの立場は疎遠な状態での思考によっていくらでも逆転しうるという話?例として、奴隷に依存せざるを得ない自由人)(最小合意とは違うんだよね)絶対的な正しさ(をはかる系)は存在しないのではないかという懐疑。 疎遠(疎外)━既存の規範や習慣から自由になってものごとを捉え直そうてこと? ・近代批判 信仰と啓蒙の戦いについて。啓蒙主義以後の人間が得意とする論破はなぜいかんのか。相手の立場をいったん承認し「協働」していこうという態度が見られないから。自分の道具(エビデンス、合理性、経験的な知)では解決できない問題(信仰でいう人間とは何かとか神秘体験への志向とか)を切り捨てて「信仰により盲目になっている」「理性的ではない」と切り捨ててしまっている。パン=キリストの肉を「ただのパンじゃないか」と喝破することについて「資本主義」的であるという斎藤の言い方はちょとマルクスを意識してるんだろうな 啓蒙主義には自らの方法論に対する懐疑が足りていないというのは最近思っているところで、本の中に出てきた論破屋とか冷笑家とかは理性とかエビデンスとか実証的な経験以外をあまりに手軽に捨象しすぎだと思う。須藤の態度もだいたいこんな感じで、科学哲学者と「協働」したくないことがありありと出すぎていると思う。 ・「赦し」 進撃のガビとカヤ(とニコロ)のやりとりが相互承認の例に挙げられていておもしろかった。やぱ教養があると漫画を面白く読めるんだすね
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