チャモピーピーチャマ
@chu_berry
- 2025年11月11日
ファンたちの市民社会渡部宏樹読み終わった著者インターネット好きすぎるな、、キムカーダシアンのKimono炎上久々に思い出した ・メディアへの関わり方には、自分の欲望が必ず内在しているという話が興味深かった。ただエゴイスティックな欲望やナルシシズムについて人から「君はこういう欲望を持ってるんだよ」みたいなわかりげな分析されたらキレちゃいそう、あくまで自覚する形で認識しないと停滞しそうだなあ ・文化の盗用(マジョリティがマイノリティの文化を差別化の道具にする)と二次創作(マイノリティがマジョリティの文化を用いて自己の欲求を満たす)の差異がかなりスリリング、もっと知りたい 『コモンズと文化:文化は誰のものか』の紹介があった 二次創作、ファンダムの良さについては散々語られてきてそういった行為が個々人の欲求を昇華させることについてはわかった。しかし思想・良心の自由でいう「目に入れない自由」の議論や一次創作者の権利(流用されない権利、知財とはまたニュアンスが違う気もする)との衝突については不勉強でわからないところが多い。 ・ずっと思ってた観光批判についてちゃんと文章になってるのを初めて読めたのもよかった。 金と時間の余剰がある人が自分の住んでいない場所に行って在地の体験や住民のサービスを金で買うという構造、自覚的になればなるほど好きではない。本文では、資本主義的な仕組みの中で観光経験を買う際は快楽の大きいステロタイプで提供されがちなことに自覚的になり、自分で考えながら情報を受け取るようにしようという感じの締め方がなされていたが、、 (本の感想というよりは愚痴)消費者、被治者の実践という話になると守破離でいう「破離」の部分ばかりが取り上げられていて、自由な実験、コミュニティでの交流が主眼に置かれていてもやもやする。自由な活動をするための「守」すなわち基礎知識の獲得についてはあまり触れられていなくて、いざ実践するぞとなっても何から取り組んだらいいかわからなくないか - 2025年11月10日
- 2025年11月9日
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)ベネディクト・アンダーソン読んでるお、おもしろい 難しいけど 近代分析の新たな視角を得ています 神と聖言語によってつくられた大きな中世的共同体が近代国家に再編成され、同時性─俗語による出版の興隆による時空間的な連帯感に基づく近代国家に再編成されていったというような話 - 2025年11月9日
中立とは何か野口雅弘読んでるウェーバーの「価値自由」論についての説明?の本 ウェーバーの著作の読んだことあるぅな部分が出てくるとうれしい!解説書から読むのもいいけど、原著さらっておくとわかりみが格段に違うかもしれん ・価値自由においては事実と価値の区別が必要:判断における事実の取捨選択を避け、自信の党派性(神)を認識すること ・秩序批判:学問の過程において法則性を見つけたとて、法則を規範と考えて再現しようとするのは違う。学問の領分ではない規範論にはみ出すことは、規範=秩序への依存を強め、学問の価値自由を損ねる可能性がある。 ・価値自由と中道は異なるどころかむしろ逆の概念かもしれない。中道というのはもっぱら政治的な概念であり、さまざまな意見や状況を勘案して総合的な判断を下すことを指している。しかし中道はどっちつかずの思考をもたらしキレのない議論になってしまう懸念がある。学問の価値自由とは異なる価値観が存在することを真正面から受け止めること(それでおしまい)?←価値相対主義との違いは???これでおしまいでええんか?? ・神々の闘技場としての「価値討論」:対立する意見の相違点と価値の最も大事な部分を突き詰める試みであり、議論と反省を経て自分自身の立場を明確にしていくプロセス←これを価値相対主義のアンサーにできるのか?熟議民主主義や闘技民主主義ともまた違う、どうせ平行線だけど話し合って差異ははっきりさせようやというニュアンスらしいけど… ・p.64「ポジションの変化のない読書は、自分のポジションの正しさを確認するにすぎず、安心する手段にすぎない」だっけ、至言 ・4章以降あんまわかんなかった、丸山眞男、大塚久雄、安藤忠雄について知識を増やさないとうまみがわからないかも〜😵💫 - 2025年11月7日
〈私〉時代のデモクラシー宇野重規p.46フロムは自由それ自体の価値という前提は疑わず、いわば価値あるものに対し、現実の人間がそれを担う準備や資質が足りていないとした一方、現代において語られる否定的な個人主義は人が端的に無力であること、脆弱であることから出発し、欠如としての個人化が語られる ↑違いが厳密にはわかっていない…… - 2025年11月6日
職業としての学問マックス・ウェーバー,尾高邦雄読み終わった金にも自己実現にもならないのになんで読んでるんだろ〜😭という気持ちにはこの先1週間くらいならないで済みそう ・1919年の悩めるドイツ青年向けの講演だけど現代病理にも十分対応されそうな議論 ・「神々の闘争」概念についてだけ聞き齧っていて、そこについて知りたいと思って読んだ。学問に献身することで自分が信じる神を決め、他の神を否定する決意を持つべきことは本を読んで新しくわかったのでうれしい ・学問を修める人が、自分の学問を利用してむやみに自分の「個性」を誇示してはいけない。ひたすら学問に情熱を傾けること以上に個性的なことはない、という部分が刺さった。ヨビノリが「何者かになりたければ専攻ガチれ」っていってたことにも通ずる。私はちゃんとした専門分野も打ち込む対象もないので、やらかしていないか心配にもなった。 ・神が死んで久しい2025年に、絶対的で譲れない価値秩序を選び取るのって相当難しくないか、、? - 2025年11月6日
自由からの逃走エーリッヒ・フロム,日高六郎読み終わった早稲田1年目の時に仲良くなった人が「大学に入って自由が増えて困ったので読んでます」的なことを言っていたが、これを読んでその悩みは改善されたのだろうか、、 p.76「一つの思想について、その意識的に志向された意味と、真の心理的意味の食い違いは、ここでわれわれが問題にしているルッターの教義を分析しても、取り出すことができるのである」 p.154「無意識的な力の概念を利用する心理学だけが、個人や文化を分析すさい、われわれが誤って犯している合理化を、つきやぶることができる」←かっこいい。社会学から心理学に転向したフロムにしか言えないよ p.185「しかしわれわれのみるところによれば、権威は無くなったにではなく、むしろ目に見えなくなっただけである。(略)常識、科学、精神の健康、正常性、世論」←ほんっっまにそれ、宗教的権威がなくなったとてわれわれ人間は何かに行動を誘導されているし価値観を規定されているような不安が離れない!広告の社会学とか読んでおいた方がいいかも?? 積極的自由を意識的に行使することがニヒリズムへの対処法か〜そんなこと大衆にできるんだろうか(ニヒリズム??) プロ倫と並行して読んだせいで、ウェバーの主張とフロムのアイデアが頭の中でごちゃごちゃになってしまっていてまずい、その仕分けについては仲正の解説が役に立ってるかもしれない チャッピに話しかけたらなんかいいこと言われて鬱→ せやから実践的に言えば、積極的自由とは「選ばされている自分を自覚しながらも、それでもなお選び続けること」やろな。 逃げられん社会的条件の中で、あえて自分の神を引き受けて、それを媒介に他者へ働きかける——そういう矛盾を引き受ける姿勢。 - 2025年11月6日
- 2025年11月5日
リベラルとは何か田中拓道久々に読んだ!自由主義(ブルジョワ中心の市場主義推進)→リベラル(再分配で機会の平等促進)→新自由主義(最低限の生活保障で経済活動の自由を保障)、文化リベラル(経済から多元的な価値に論点が移行)の系譜が簡潔に書かれていて助かる 文化的リベラルについての話題が興味深く、経済政策についての文脈でリベラルが推移してきた中で「多元的な価値」という新たな指標を持ってきて政治的主張を展開した点が面白いと思った。一方本文でも指摘があったが、多元的な価値(の実現のためのマイノリティへの再分配)は、本来リベラルが支えたかった貧しいマジョリティに訴求できないせいで広い支持は得られていない。 少数者保護を推進するために、あえて多数派に対して傾斜をかけないほうがいいという意見もおおむねわかる。しかし包括的な福祉を提供できるほど国は豊かではない。 あと20世紀ロールズ以降の現代リベラルの考え方も諸手をあげて賛成とは言い難い。価値の多元性に基づいて、個人が自由に自己実現を果たすことができる、そのために平等を推進すべきだという論のなかの、自分らしさや自由な選択というのが万人にあるとは思えない。人はそんなに自由で強い個人であり得ないと思う。人は生まれたての状態から唯一無二の個人であると思っていないし家族や国をはじめとする共同体の影響を強く受けて人格が形成されていく。これを取り払ってまったぅゼロになってアイデンティティを頭で構築してくださいというのは無理がある、中立であるという価値観の押し付けに繋がってしまうのでは? - 2025年10月31日
「みんな違ってみんないい」のか?山口裕之読み終わった - 2025年10月30日
スロー・ルッキングシャリー・ティシュマン,北垣憲仁,新藤浩伸読み始めた「感性が貧しい」という私の最近のお悩みは、ゆっくり見ることによって方法論的に改善されるかもしれない!といいな 第一印象を乗り越えて、そのまま見る、要素を取り出して列挙する、視野の使い方をあれこれ変えてみるなどのスロールッキングの方策をつかって念入りな散歩(永井玲衣氏の趣味でもある)をしたら楽しそう 終章で、感性(感受性)が貧しいとは、観察を行うべき場面を察知することができないことだという指摘があった。確かに無の時間はスマホを見てしまったりでなかなか意識的にただ見る時間を作っていないかもしれないと反省した。 第1章 ゆっくり見ることは複雑さに対する健全な反応。物事の多面性を理解し評価するためのゆとりを作り出す。(→対立を複雑さの徴候と見なし、複雑さを検証する手掛かりにできる) 第2章 グリンネルメソッド(鳥類学者):FWにおいて鳥の種類と数だけでは取りこぼす情報が多すぎるため、天候や生息環境などの記録項目を厳密に決めた(考察に何が必要かは後にならないとわからないという気づき←仮説検証タイプの自然科学とはまた違っていそうでおもろい) スプラッタービジョン←おもしろい、視界が広がる感じ 第3章 アレクサンドラ・ホロヴィッツ『見ること』:11人の専門家とそれぞれ散歩をすることで「専門家の目」から世界を見る体験ができる←ゲームさんぽと同じ理念で好き、おそらくこれが元ネタ? スロールッキングは、第一印象を乗り越えるということ 第4章 記述:何が見えるのか(五感を通じて認識されるような、ものや現象が表面上どのように見えるのか)↔︎物語(時間的な認識、因果にも着目)、説明(分析と解釈) 第5章 現代博物館の鑑賞スタイルと本来の博物館の目的の乖離(自分の目で見ることそのものへの価値が認められているものの、そこから思索にふけることについてはそれほど、、💦) ファストルッキングは人間の性質上仕方ない?最小限の認知能力で最大限の意味を引き出そうとする →最初の一瞥を長くとり、持続的な観察に移行することが本来望ましい 構成主義的学習:人間は自らの興味に基づいた経験と反省の往復により世界に対する理解を構成していく(観察→解釈→反省のアートプログラム) △誤った情報を取り上げ誤った解釈をする可能性→初心者にはわかりやすい絵を提供する? 第6章 自分の目で見ることに価値をおく博物館と、必ずしもそうではない学校 自然学習 ルソー『エミール』にみるような人間の感性を刺激することに力点を置く教育 カリキュラムに沿って指導することの無味乾燥さ、生徒が観察により自ら問いを持つように仕向ける技術が期待されている 第7章 中世自然科学において観察は周縁化(民間伝承や実践知に近いものだと思われていた)しており、第一原則に基づくような推測的な記述が主だった 16世紀後半にやっと「ゆっくり見る」ことが科学の手法としてメジャーに ①19世紀後半:機械的客観性という理想→②訓練された判断力(解釈─パターンの整理や分類、識別の能力を考慮) ③フロイトによる無意識の研究による客観性の再考、科学者の客観性は無意識の主観的な働きに制御されているのでは? ①から③のパラダイムの併存(伊勢田哲治がこの話してた気もする) 第8章 ゆっくり見ることによって複雑さを見極めること、教育においてどの程度の知識で、どのくらいの時間をかけて行うか、取捨選択は必要 複雑さの類型①部分と相互作用②物理的、概念的に多様な視点③知覚者と知覚対象の関わり合い エージェンシーバイデザイン:部品がどのような相互作用をもち目的を達成するかを知り、その複雑さを理解する←スピノザもそんなこと言ってたかもしれない、これは嘘かもしれない 第9章 「ゆっくり見る」ために備わっていると望ましい気質 ①能力 ものを識別しリストアップなどの観察方策を使うことができる ②意欲 ③感受性 その行動がふさわしい場面に気づく力 ゆっくり見ない生徒に多いのは感受性の不足(授業中がその“場”であるとわかるが、それ以外の場面ではさっぱり)→いつでも、複数人で観察に取り組める場を作っておくのが適切 「決める」と「見分ける」:知的作業というと「決める」ことが想定されがちだが、(短期的な生産性は低く問題解決を目的としない)「見分ける」ことも課題解決に貢献する可能性がある - 2025年10月30日
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神改訳マックス・ヴェーバー,大塚久雄読んでる第1章を読んだので休憩! 資本主義の発達がプロテスタンティズムを用意したのではなく、プロテスタンティズムの職業倫理が資本主義発達の土壌になったのではないか?という話 第1章はカトリックとプロテスタントの対比、ルター派古プロテスタンティズムの説明 面白かったのが、ルターはカトリック教会の信徒の束縛を過剰というよりむしろ不足していると考えており、神への絶対的服従(=禁欲的態度に依らず、恩恵は現世的行いの如何と無関係であることを認識しつつ自身の義務を淡々と果たす)を原則としていたこと。またルターは(カルヴァン以後は知らんけど)心情や習慣の自由を認めておらず、生活態度には伝統主義的な思想を持っていた。 Eフロムが宗教改革を服従先の移動に過ぎないことを喝破したことの根拠がありそうな感じ ルターが世俗的実践を信仰の実践としたことの連関はよくわからなかったし、これが資本主義の精神に結びつくのはカルヴァン以後という感じなのかしら、、続き読むのめんどい、、、 - 2025年10月16日
- 2025年10月15日
ヘーゲル「精神現象学」3月斎藤幸平読み終わった・「精神」、人というのを関係性のなかに読み解くという基本的な態度はケアの倫理とかとも相性がいいんだろな(逆か、ヘーゲルとかのコミュニティ主義的な考えがケアの倫理の基盤をなしているのか) ・アウフヘーベン 折衷案というよりも立場の転回についての説明だった。(善悪、主従とかの立場は疎遠な状態での思考によっていくらでも逆転しうるという話?例として、奴隷に依存せざるを得ない自由人)(最小合意とは違うんだよね)絶対的な正しさ(をはかる系)は存在しないのではないかという懐疑。 疎遠(疎外)━既存の規範や習慣から自由になってものごとを捉え直そうてこと? ・近代批判 信仰と啓蒙の戦いについて。啓蒙主義以後の人間が得意とする論破はなぜいかんのか。相手の立場をいったん承認し「協働」していこうという態度が見られないから。自分の道具(エビデンス、合理性、経験的な知)では解決できない問題(信仰でいう人間とは何かとか神秘体験への志向とか)を切り捨てて「信仰により盲目になっている」「理性的ではない」と切り捨ててしまっている。パン=キリストの肉を「ただのパンじゃないか」と喝破することについて「資本主義」的であるという斎藤の言い方はちょとマルクスを意識してるんだろうな 啓蒙主義には自らの方法論に対する懐疑が足りていないというのは最近思っているところで、本の中に出てきた論破屋とか冷笑家とかは理性とかエビデンスとか実証的な経験以外をあまりに手軽に捨象しすぎだと思う。須藤の態度もだいたいこんな感じで、科学哲学者と「協働」したくないことがありありと出すぎていると思う。 ・「赦し」 進撃のガビとカヤ(とニコロ)のやりとりが相互承認の例に挙げられていておもしろかった。やぱ教養があると漫画を面白く読めるんだすね - 2025年10月15日
科学を語るとはどういうことか 増補版伊勢田哲治,須藤靖読んでる2章まで読んだが続きを読めるか不安だ、とても不安だ 物理学者の須藤靖が科学哲学に難癖をつけ、これに科学哲学者の伊勢崎哲治が返答するという対話形式の本 ドブど文系の私からすると物理学者の須藤はずっと科学の単線的な発展を前提に無批判な断定を続けていて苛立たしいし、理系の彼氏にちょっと読んでもらったところ科学哲学者の伊勢崎は話がくねくねしてわかりづらいと言われた。読み手によってどっちに肩入れするか変わりそうでおもろい 敵対的な議論は観察するこちらの精神をゴリゴリ削るのでつらいが、人との話のネタになったことについてはまあ購入してよかったなと思っている - 2025年10月14日
時をかけるゆとり朝井リョウ読み終わった昔読んだ漫画で「自分の描いた小説を見せるなんて尻穴をみせるようなもの」と言っていたのをぼんやり思い出した。朝井リョウは自分の尻穴について文字通り曝け出しすぎだ、面白コンテンツだと思って〜 浅井リョウの隣の街出身で(ピアノの先生の息子は朝井氏と同窓だったり)大学も(途中まで)一緒だったりで、だのに人間について知りすぎている本ばっか書いてるので勝手に怖がっていたが、エッセイを読むに市井の感覚を持っている人で心底安心した。あと人間めっちゃ好きそうだった。地元の高校とか図書館とか知ってるネタがちょっとずつ出てきて嬉しかった。 - 2025年10月7日
- 2025年10月7日
さみしくてごめん永井玲衣読み終わった気軽に読んだ。お金を払って人の日記を読ませてもらうことはあまりなかったから新鮮だった。noteなどの私的に書かれたものを無償で読ませてもらう類の気まずさがなくてありがたい。 - 2025年10月5日
ケアの倫理岡野八代読み始めたんで一旦こっちから読んでみますよ 市川沙央『対話でさぐる 共生の未来』において、障害者が訴えていたはずの「共生」が、健常者(マジョリティ)に奪われていることが痛烈に批判されていた。このテキストをきっかけに、言葉の横取りについて考えるようになっている。 自分はケアを提供しているのではないか、ともやもやする機会が増えた。しかしケアとは何か、自分が人に提供していると思っているものが実際何なのかはよくわかっていない。ケアの用法について現状の定義とずれがあるなら語を改める必要があるのかもしれない。 - 2025年10月5日
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