チャモピーピーチャマ
@chu_berry
- 2025年10月7日
- 2025年10月7日さみしくてごめん永井玲衣読み終わった気軽に読んだ。お金を払って人の日記を読ませてもらうことはあまりなかったから新鮮だった。noteなどの私的に書かれたものを無償で読ませてもらう類の気まずさがなくてありがたい。
- 2025年10月5日ケアの倫理岡野八代読み始めたんで一旦こっちから読んでみますよ 市川沙央『対話でさぐる 共生の未来』において、障害者が訴えていたはずの「共生」が、健常者(マジョリティ)に奪われていることが痛烈に批判されていた。このテキストをきっかけに、言葉の横取りについて考えるようになっている。 自分はケアを提供しているのではないか、ともやもやする機会が増えた。しかしケアとは何か、自分が人に提供していると思っているものが実際何なのかはよくわかっていない。ケアの用法について現状の定義とずれがあるなら語を改める必要があるのかもしれない。
- 2025年10月5日
- 2025年9月12日
- 2025年9月7日
- 2025年9月6日反知性主義森本あんり読み終わった以前読書会のために読んで、半年を経て再読してみた 日本で反知性主義の本を書こうとするとたぶん陰謀論や権威主義に傾倒する人をめった刺しにする内容になると思う(内田樹編の『日本の反知性主義』まだあんまちゃんと読んでないですよ)けど、むしろアメリカをアメリカたらしめている考え方として筆者からポジティブな眼差しが注がれている。 アメリカに移住したピューリタン牧師は高学歴で日曜礼拝のお言葉も長くて難解で、ろくな教育を受けていない労働者階級からしたらつまらない……という状況に対し、学歴不問でエンタメ性に富む宣教師が各地を回ってセンセーションを起こしていく。巡回布教がやがて巡回ビジネスの原型となり、アメリカ国民の政治家の好みも高学歴エリートよりむしろ話が上手く非教育層にも親しみやすい人が選ばれやすくなり、といったふうなアメリカ文化の素地を築いていく。みたいな話だった(と思う) 知性と権威が結びついている状況を糾弾し自分で理解できるものに従うという反知性主義は、ともすれば陰謀論やポピュリズムにずれこむこともあるだろう、むしろそれが自然な流れだとも思える。しかし177ページでは「自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも精神の胆力を鍛えねばならない」とある。著者としては反知性主義は自力で知性の秩序を構築する気概だと捉えているが、いわゆる反知性主義者全員がこれを実践できているわけでもないと思う(森本氏は者を買い被りすぎだとちょっと思う、、) しかし自分で良いものを理解し、自己の精神との対話で価値を高めていく営みは尊いとも思うから、本流の反知性主義が筆者の期待するようなあり方だったら良いなとも思ってる(トクヴィルの言う個人主義と関連あるかも??) 最近信仰とはどんな気持ちか直感の方でわかりかけてきたので、宗教をモチーフにした本が面白くなってるかもしれん (追記)反知性主義は反・知性主義であって反知性・主義ではないってYouTubeで森本氏が言ってた
- 2025年9月5日読み終わった科学とはなにかという非常に困難な問いに対し、生態系のアナロジーとして科学を捉える見方を示している。科学はそれ自体が一定の規則に基づいて単線的に進歩しているというより、文明社会との転換や分野ごとのシナジーが複雑にからみあい現代まで発展してきた。市民社会を生きていく上でも、誤謬に細心の注意をはらいつつ科学的知見を適切に取り入れていくことによってより良い生活を構築していけるよというようなことが書いてあった。 科学とは、という定義をばばんと示して終わる形ではなかったけど、まあ生物とは何かという定義も時代によって変わるだろうし……科学観を相対化することで非常に深刻な問題から逃げているような気もしなくもなく 科学は絶対的で客観性の高い思考類型であるという命題に大してなにか付言することはまだできないかも!くやしい〜
- 2025年9月3日実験の民主主義宇野重規,若林恵読み終わった質の高いやりとりないし対話が構築されていることに舌を巻く一方で、これが本書で引かれたプラグマティズムと民主主義の関係において想定された「まずやってみる」に当たるとするならばレベルが高すぎるとふるえた 民主主義の定義をいったん外において、民主的な社会をどう構築していけば良いだろうか、と言う問いをメディア論に強い編集者と考えていくのは政治思想史的(哲学ぽくない)だった。 人々とメディアとの関わりにおいて、推し活(カフェに行って写真を撮って投稿してみる、切り抜き動画をつくってみる、ファン同士で勉強会を開いてみる)が能動的なファンダムの民主性として取り上げられる一方、市民参加の進展と総動員のつながりがアイドル総選挙(票数という形でしか参画できない個人が搾取されてしまう)に対応しているのが面白かった。 ↑この「市民参加の拡大と総動員体制は紙一重」という見方が好き 女性の賃労働への参加も市場経済における女性の搾取の開始と読みかえることが可能かも?(その場合、自分には何ができるのか考えて主体的に関わっていくことが搾取ではなく参画に高めていこうね〜というのが本書の趣旨?) プラグマティズムは全くさわったことがなかったので面白そうだなと思った、エリート民主主義の対局みたいな主張ぽくてあまり好きにはなれなさそうだけど。最近『職業としての政治』で政治家たる資格みたいな話を見た気がするのでそこの対比からも考えてみたい 実際に、まずやってみる、やってみることに価値がある、手を動かすことによる民主主義の実践を試みるという本書の主張は、各アクターの主張が「正しい」のかという評価についてはあまり触れられていない。そこもコミュニティないの漸進的なやりとりでよくしていきましょうね〜という感じだろうか。相対主義に陥ってしまいそうなところを、人がコミュニティを行き来できるという「軽やかさ」で解決できると考えている?多様な社会階層の人が集まってうんと考えて落ち着いたのが排外主義とか差別主義とかになった場合、どう評価するのだろうか。 なんにせよこんな楽しそうなおしゃべりは私にはできないので寂しい!知識をつけたいねー、、あと再読しようねー
- 2025年8月20日人権 (一語の辞典)樋口陽一読んでる樋口御大が書いてるとあって流し読みできない緊張感を勝手に感じている。この夏知りたいことがちょいちょい書いてあって、しかし真意を掴めないでいるのでもどかしい状態 ・人権が直面している問題として文化相対主義やフェミニズムなどの現代思想との衝突 ・平等は弱い側の理想、しかし弱い人間が強くあろうとするところに人権は作用する←もうちょっとわかりたい、きっと大事なところ ・人権思想には自分で思考し選択する能力を持つ強い個人の存在が期待されているが、人権思想の流布が全ての人の強い個人たることを求めているのでは理想的状況の実現可能性は低い ・イギリス的権利とドイツ的権利(この本の情報かすら忘れた)
- 2025年8月18日
- 2025年8月17日
- 2025年8月17日性 (一語の辞典)小田亮読んでるTwitterを見る代わりに「一語の辞典」シリーズを開いたり開かなかったりしている。表題の語について江戸時代以前の用法と舶来語の訳語としての用法をもっていることから語義の分析が始まっている。
- 2025年8月17日読書についてアルトゥル・ショーペンハウアー,鈴木芳子読み終わった新しいだけで質の低い焼き増しみたいな本を読まずに、第一人者の原著をなんども読みなさいというお言葉はまあわかった。ただショペの言ってることを真に受けるにはキリスト教的な至上の価値である真善美に馴染みがない。彼はなにか「良書」という概念をもとに論を展開しているみたいだけど 相対主義を受け入れた私には良書も人それぞれと思えてくる一方、私にとっての良書は“私がそう思うから”良書であるという説明もおかしい気がする、、最近の人が書いた入門書を引きつつ原著にもあたっていけるようにがんばりたいですね
- 2025年8月17日
- 2025年8月9日教養主義の没落竹内洋読み終わった米津がおもしろいと言ってバズった本、田舎から上京して東大に入った身からすると終始ボコボコ殴られてウケた p.36旧制高校の閉じたコミュニティにおける歪んだ教養主義に対して、新制高校では自己・実践・学問を三位一体とする自己形成の粘り強い努力をするべきである、という教養主義の継承(←「マルクス主義」的という指摘があるがマルクス主義ってそういう感じなの?p.55教養主義を観念的でありブルジョワ的でプロレタリア革命の敵対的分子である、と説明)が行われている p.54和辻哲郎の言葉 大きい創作を残すためには自己を大きく育てなくてはならない。君が能動的と名づけた小さい誇りを捨てたまえ ←食らった オーバーキルです、漫画とかアドリブとかって膨大な勉強の上にやっとオリジナリティが追求されるもので、勉強量が足りないのにむやみに我流で創作をするのは無意味だといってる とはいえ自分で手足を動かさないと成長のチャンスを逃してしまうことは確かで、インプットとアウトプットの比率をインプット多めにしなさいねというくらいで受け取ることにした p.192〜教養主義とブルジョワ文化 知識本位の教養主義と、生活習慣に現れる教養としてのブルジョワ文化の懸隔 教養主義者はスノビズム、洗練に憧れているに過ぎない(ドイツ的教養主義も身分と教養が連動していないせいで、教養主義者は平民的という評価を下される)、学歴上昇移動をしてしまったが故の悲劇 ←刺さりすぎるのでやめてください 東大に入ってしまったから難しい本を読まなきゃいけないのでは?といまだに気にしている節がある(読んではない)し結局就職やら私生活やらでモテるのは首都圏で生まれ育った早慶の学生だって痛いほどわかっているので……読んでも読んでも田舎っぺから脱却できないこと、東大生が世慣れしてない(したくなさそう)なのは教養主義からの説明が可能かも?
- 2025年8月5日人権の政治思想鷲見誠一読んでる慶應の法学部の先生が学部2年生くらい向けに書いた人権理論概説。今年の夏休みは人権週間ということにしているので、一旦目に入った本書をぱらぱらしてみている。 【Ⅱ章こんなこと書いてあった】人権、尊厳は何によって正当化されるのか? ・ウェバー: ・ニーチェ:近代啓蒙思想によって人間の理性が優位になっていく過程でキリスト教の超越的規範性が損なわれた。個人の理性によって人が生きるようになってからは自分自身が「小さな神」となり自分の意味を自分が規定するように→神の死 ・カント:当為?自分が「する」ことによって人間社会と関係をもち、自己を規定する ヨーロッパにおいてギリシア哲学・ローマ法学・キリスト教規範によって形成された人権理論がグローバル化の過程で価値相対主義における対立に直面している。基本的人権や人間の尊厳といったものが普遍的概念たるには、ヨーロッパの思想をそのまま適用しキリスト教ネイティブの国に流布するのでは不十分で、その国本来の思想文化に照らして独自に尊厳の普遍性を説明していくことが必要なのでは?(福沢諭吉、内村鑑三、丸山眞男あたりがいいこと言ってるらしい??) (気になったワード)神々の闘争(ウェバーを読めばわかる??)価値のニヒリズム、存在のニヒリズム(ニーチェの神は死んだってそういう感じの意味だったんですね)
- 2025年8月5日
- 2025年8月2日読み終わった(要加筆)(何をメモに残せばいいのかまとまらなくてずっと反芻してる、そのくらい有難い本です) 世界を理解可能なものにして仕事がより捗るようになり目上の人と共通の話題で盛り上がることができて、そうやって自分の生活をより“豊か”にしてくれるものとしてのファスト教養について、それをとりまく環境と対処法について記述されている。 ホリエモン、中田敦彦、本田圭佑など時代の寵児と評される人々に対する筆者の態度は一概に厳しすぎるものでもなく、ファスト教養とそれを求める人への眼差しは、かつて「2004年に入社した自分」、可能な限り早く武器を得てもっと成長したいと切望した自分への優しい眼差しに基づいている。忙しくて追い詰められていて岩波文庫だなんだと読む暇はない人がファスト教養に活路を見出すことを否定しない。 ファスト教養を覗き込むとき、同時にファスト教養はこちらを見ているというのは大いに共感するところで、私が今までファスト教養的な本(教養のための、明日から役に立つ、誰も知らない、人生逆転といった眉唾な言葉で埋め尽くされた本)を敬遠していたのは、本が醸し出す不安に取り込まれてしまうのが怖いからだった。私はまだ読めなさそうだけど、勇気を出して研究した筆者をめちゃ尊敬している。 ファスト教養と古典的な教養の違いは、既製品を買うか手作りにこだわるかの違いに似ている気もする。どういうプロセスでできているのか、作るときに何を考えているのか、他のものとの共通点や相違点は何だろうか、もっとよくわかるためには次は何を作ればいいだろうか…というように、ひとつの対象に対して自分がどのくらい感性鋭く関わることができるのかというのが手触りのある作業によって引き出されているように、教養を得る過程そのものがその人の感性を訓練するものであるといいなと思っている。その点でファスト教養というのはできるだけわかりやすく美味しいものを、できた状態のまま食べたら舌が肥えますよというようなもので私とは相容れない。本文で「すぐ使えるようになるものはすぐ使えなくなってしまう」という言葉が引用されていたように、教養は一朝一夕で出来上がるものではないし時間をかけてじっくり育ててこそであるのに。 しかしそういった自己の内面の涵養のために学ぶことの現代社会においてなんと難しいことか。この本の次に読んだ『承認をめぐる病』において、現代を生きる人は以前にも増して他者との関係性、他者からの承認をアイデンティティとして生きているという指摘があった。この議論はファスト教養が流行する理由と繋がっていて、
- 2025年8月1日承認をめぐる病斎藤環読み終わった社会学的な話かと思ったら精神科医のゴリゴリ精神病理の話だった。あと論文集で承認の話は前半しかなかった。後半はラカンとかの小難しい話をしてて読み飛ばしてしまった 日頃文章を読んでいて、「綾波はASD」とか“発達顔”とかの簡易的な精神病理診断を見るとウッとなるが、著者が精神科医なので病気の診断がポンポン出てもまあそうなんか〜納得してしまう不思議な読み口だった。 ぼっち・ざ・ろっく!で後藤ひとりが承認欲求モンスターになってしまうという描写があったり、承認は人にとっておよそ普遍的な欲求かと思っていたが(マズローの段階説とか)、どうも現代の承認欲求はコミュ力偏重主義とキャラ(記号)としての承認に特徴があるらしい?「自分は〇〇だから〜」という言動が自分の行動を縛り、逸脱がキャラを損なうことになり、他者にこう見て欲しいというパッケージを提示するだけでなく自分にもキャラ「らしく」振る舞うことを強要して、結果として自分の本来の欲求が見えないからっぽの状態になってしまう、という趣旨だった気がする エヴァ見たことないけど、本文中のエヴァ解説がおもろすぎてちょと見たくなった
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