綾鷹
@ayataka
2025年10月24日
・人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くの様々なタイプがあるのだ。
・「遅かれ早かれあんたにもそれがわかるじゃろうが、進化というのは厳しいものです。進化のいちばんの厳しさとはいったい何だと思われるですかな?」
「わかりません。教えて下さい」と私は言った。
「それは選り好みできんということですな。誰にも進化を選り好みすることはできん。それは洪水とか雪崩とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきてからでは抗いようがない」
・「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」
・私の人生は無だ、と私は思った。ゼロだ。何もない。
私がこれまでに何を作った? 何も作っていない。誰かを幸せにしたか? 誰をも幸せにしていない。 何かを持っているか? 何も持っていない。家庭もない、友だちもいない、ドアひとつない。勃起も しない。仕事さえなくそうとしている。
・「疲れるってどういうことなのかしら?」と娘が訊ねた。
「感情のいろんなセクションが不明確になるんだ。自己に対する憐憫、他者に対する怒り、他者に対する憐憫、自己に対する怒り――そういうものがさ」
「そのどれもよくわからないわ」
「最後には何もかもがよくわからなくなるのだ。いろんな色に塗りわけたコマをまわすのと同じことでね、回転が速くなればなるほど区分が不明確になって、結局は混沌に至る」
・人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを把握するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。 私が現在置かれている立場がまさにそれだった。技術的な難易というのはそれほどの問題ではない。
問題はどこまで自己をコントロールできるかということなのだ。
・君は俺にこの街には戦いも憎しみも欲望もないと言った。それはそれで立派だ。俺だって元気があれば拍手したいくらいのもんさ。しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。
・街はそんな風にして完全性の環の中を永久にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?それが本当の世界か?それがものごとのあるべき姿なのかい?いいかい、弱い不完全な方の立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね
・しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれがしその失いつづける人生が私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。
かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・バーグマンと知りあうことだってできるかもしれないと考えたことだってあった。あるいはもっと現実的に ーそれが実際に現実的であるかどうかはべつにしてー 私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることができるかもしれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。「緑色革命』だって読んだし、「イージー・ライダー」なんて三回も観た。しかしそれでも私は舵の曲ったボートみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。
