JUMPEI AMANO "どこかの遠い友に" 2025年11月3日

JUMPEI AMANO
JUMPEI AMANO
@Amanong2
2025年11月3日
どこかの遠い友に
どこかの遠い友に
木村哲也,
船城稔美
【11月3日】 昨晩は西大島のStudio04にて、カロク・リーディング・クラブ第4回「『どこかの遠い友に―船城稔美詩集』を読む」でした。木村哲也さん、瀬尾夏美さん、永井玲衣さん、そして読者の皆様(未読の方含む)とともに三篇を精読。 「棘のある風景」、「無精卵」、「どこかの遠い友に」。一行一行に立ち止まりながら考えられたのはこのうえなく贅沢な時間で、一人ひとりの読みに多くを教わりました。 船城さんにとって詩は、たった一つの顔にこだわる場でありながらたった一つの顔にこだわらなくてもいい場でもあり、無限のつながりを持てる場でありながら孤独でもあれる場だったのかもしれない。そしてその往還こそが、船城さんにとっての(瀬尾さんの言葉をお借りするなら)「旅」であったのかもしれない。 初めて船城さんの詩群をまとめて浴びるように読んだとき、孤独の色を感じながらも、絶望の色は感じ取らなかったのはなぜだろう。船城さんの「優しさ」って何だろう。そのことを、イベント中ずっと考えていました。 特に「無精卵」があの晩、とても(私には)優しく響いたのはなぜだろう。題名のすぐ横に添えられた2行〈癩性神経麻痺は、ノーマルな/思考をくもらすのだろうか〉の意味を、あと少しで掴めそうな気もするのだけど... 長生きした船城さんの詩は、晩年に向かうにつれて、老いや去って逝った者たちに対する淋しさの色が濃くなるように感じる。でもそれは絶望の色だろうか。 少なくとも詩人として最も脂がのっていた頃の「棘のない風景」において詠まれていたのは、木村さんのおっしゃるように「究極の孤独」であるように読めるし、たぶんそうなのだけど、でも同時に、自分にとってはそんなに絶望的に響いてこないのはなぜだろうか。 何となく掴めた気もするけどまだ言葉にしたくない感じ。特に船城さんの場合、一篇だけを抜いて語っても語り落ちるものが多すぎるから、やはり一冊通してちゃんと考えたいところ。 (船城さんの意地が悪くないところが好きだなあ、とも思った。意地が悪かったら「無精卵」みたいな書き方にはならないと思う。そして「孤独」だけど「孤独のひねくれもの」ではないところも好き。尊敬する。そのあたりを私は船城さんの優しさとして受け取っていたのかもしれない。) とにかく本当にありがたい企画。ゲラで何度も読んで、イベントも沢山やって、なんだか読めた気になってたけど、まだまだ読みようがありました。詩はゆっくり読むものであるって、本当にその通りだと痛感。得難い経験でした。 【メモ】 イベント終了後、瀬尾さんがXに投稿していた言葉。 〈表現者がいつもどこかに底抜けの明るさを持っているのは、いまつくっているものの先に、まだ見ぬ友がいると信じているからではないかな。〉 〈旅とはまだ見ぬ友を探すこと。〉
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