どこかの遠い友に
28件の記録
JUMPEI AMANO@Amanong22025年11月3日再読編集した@ Studio04【11月3日】 昨晩は西大島のStudio04にて、カロク・リーディング・クラブ第4回「『どこかの遠い友に―船城稔美詩集』を読む」でした。木村哲也さん、瀬尾夏美さん、永井玲衣さん、そして読者の皆様(未読の方含む)とともに三篇を精読。 「棘のある風景」、「無精卵」、「どこかの遠い友に」。一行一行に立ち止まりながら考えられたのはこのうえなく贅沢な時間で、一人ひとりの読みに多くを教わりました。 船城さんにとって詩は、たった一つの顔にこだわる場でありながらたった一つの顔にこだわらなくてもいい場でもあり、無限のつながりを持てる場でありながら孤独でもあれる場だったのかもしれない。そしてその往還こそが、船城さんにとっての(瀬尾さんの言葉をお借りするなら)「旅」であったのかもしれない。 初めて船城さんの詩群をまとめて浴びるように読んだとき、孤独の色を感じながらも、絶望の色は感じ取らなかったのはなぜだろう。船城さんの「優しさ」って何だろう。そのことを、イベント中ずっと考えていました。 特に「無精卵」があの晩、とても(私には)優しく響いたのはなぜだろう。題名のすぐ横に添えられた2行〈癩性神経麻痺は、ノーマルな/思考をくもらすのだろうか〉の意味を、あと少しで掴めそうな気もするのだけど... 長生きした船城さんの詩は、晩年に向かうにつれて、老いや去って逝った者たちに対する淋しさの色が濃くなるように感じる。でもそれは絶望の色だろうか。 少なくとも詩人として最も脂がのっていた頃の「棘のない風景」において詠まれていたのは、木村さんのおっしゃるように「究極の孤独」であるように読めるし、たぶんそうなのだけど、でも同時に、自分にとってはそんなに絶望的に響いてこないのはなぜだろうか。 何となく掴めた気もするけどまだ言葉にしたくない感じ。特に船城さんの場合、一篇だけを抜いて語っても語り落ちるものが多すぎるから、やはり一冊通してちゃんと考えたいところ。 (船城さんの意地が悪くないところが好きだなあ、とも思った。意地が悪かったら「無精卵」みたいな書き方にはならないと思う。そして「孤独」だけど「孤独のひねくれもの」ではないところも好き。尊敬する。そのあたりを私は船城さんの優しさとして受け取っていたのかもしれない。) とにかく本当にありがたい企画。ゲラで何度も読んで、イベントも沢山やって、なんだか読めた気になってたけど、まだまだ読みようがありました。詩はゆっくり読むものであるって、本当にその通りだと痛感。得難い経験でした。 【メモ】 イベント終了後、瀬尾さんがXに投稿していた言葉。 〈表現者がいつもどこかに底抜けの明るさを持っているのは、いまつくっているものの先に、まだ見ぬ友がいると信じているからではないかな。〉 〈旅とはまだ見ぬ友を探すこと。〉
JUMPEI AMANO@Amanong22025年10月18日再読編集した@ twililight トワイライライト【8月1日】木村哲也+荒井裕樹『自分を棄てずに生きること』 【9月5日】木村哲也+小沼理『境界線など引きようがない世界へ』 【10月17日】木村哲也+斎藤真理子 『詩とともに生きる』 三軒茶屋のtwililightで開催してきた船城稔美(ふなきとしみ)詩集の刊行記念トーク全3回、無事に終了。最終回は満員御礼、配信も含めたら100名以上の方にお申し込みいただきました。 ゲストのお三方、編者の木村さん、場を設けてくださったtwililightの熊谷さん、それぞれの回あるいは全ての回にご参加くださった読者のみなさま。本当にありがとうございます。 最後に斎藤さんが与えてくださった「営み」という言葉。船城さんの詩に心を撃ち抜かれたのは勿論のこと、わたしは船城さんが紡いできた「営み」を本というかたちで保存したかったのだな、と気づくきっかけをいただきました。 どこかの遠い友に。本当にいつまでもどこまでも続いていく呼びかけだと思いました。 どこかの遠い友に。出せてよかった。





花木コヘレト@qohelet2025年10月12日読み終わったLGBT詩ハンセン病しっとりとした、仄暗い言葉が連なっていて、暗鬱な気持ちにさせられました。もちろん非難しているつもりはなくて、著者の精神を追いかける意味として、味わい甲斐のある感触だという意味です。まだ一読しただけなので、また近いうちに二周目に挑戦したいと思っています。 惹かれたフレーズはいくつかありますが、やはり標題作の「どこかの遠い友に」の冒頭、 私は群衆の中のたつた 一つの顔なのだ 君がたつた一つの 顔のように はとても心を打つラインでした。自己というもの、そして友情というものを、深く考えているからこそ、出てくる言葉だと思います。孤独と、そして希望に裏打ちされていると思います。 また、衝撃を受けたのは「たそがれ」という詩篇の、 私は もう 机に生花を飾りたくない という最終行です。自分の体が朽ちていくことを見つめた後に書かれるラインなのですが、詩人の美意識が鮮やかに示されていると感動しました。 志樹逸馬さんよりも言葉が湿っていて、女性はむしろ船城さんの方が好きなんじゃないかな?と感じました。両者とも素晴らしい詩人と思います。

小池陽慈@koike_yoji2025年9月3日読み終わった読了。 流れゆく時の一刹那を、静止画として結晶させる──そんな超絶技巧。 あるいは、文字を介した世界の破壊と再創造。 今はまだ、読みながら感じたことが、頭の中で錯綜している状態。 もう少し腑に落とし込んでから、レビューをnoteにまとめようと思う。 私は、少年の「ペニス」を、こんなにも美的な形象へと昇華した芸術を知らない。




小池陽慈@koike_yoji2025年8月26日ひとまず、詩はすべて読み終えた。 一人の詩の読み手として、とても貴重な時間を過ごすことができた。 良質の詩は、誰がいつ詠んだものであっても、綴られる言葉、組み立てられる言葉に緊張が漲っている。 この緊張を追体験することこそ、僕が詩を読む目的である。 その目的は、存分に果たせた。 極上の経験であった。 必ず、感想をまとめたいと思う。 ただし、その前に、「解説」も読む。 編者がこれら詩群をどう受け止めるのか、それを知ることが楽しみで仕方ない。



小池陽慈@koike_yoji2025年8月15日読んでる毎日、少しずつ読み進めているこの詩集、今日は、「乾燥期」という詩(p. 114-117)の最終連、 私の日記には いつも、 エゴの傍線が 引かれているのです。 が、心にぐいぐいと食い込んできた。 「エゴの傍線」…! 「エゴ」も「傍線」も、あるいは「傍線が/引かれている」という主述の組み合わせも、何一つ珍しくも新鮮味もない当たり前の言葉、表現なのに、「エゴの」が「傍線」を修飾した途端に、とんでもない存在感を放つ詩語になる。これぞ、異化。 試しに、「エゴの」を取って読んでみてください。「エゴの」という表現がどれほどに凄いものなのか、「おお…!」と腑に落ちるはずです。






小池陽慈@koike_yoji2025年8月13日今日は「盲導鈴」までを読んだ。この「盲導鈴」、船城の詩としては"わかりやすい"。しかし、よくよく読んでみると、構成の緻密さにおののく。石垣りんの「シジミ」を初めて読んだときに似た印象を受ける。そしてたぶん、全盲の詩人、香山末子をこのところ読んできたことも、この詩に立ち止まってしまう、大きな理由の一つだと思う。文学は、文学と出合う。他ならぬ、この私という場において。




小池陽慈@koike_yoji2025年8月13日読んでる「交媒」という詩がすごい(p. 100−102)。この一篇に出合えただけでも、この詩集を買ってよかった。いや、これは、本当にすごい…半分くらいまで読み進めたけど、今のところはこの詩がいちばんビビった。



小池陽慈@koike_yoji2025年8月11日読み始めた毎日、少しずつ読み進めている。今日は、「無精卵」という詩を繰り返し読んだ。後でまた読むと思う。そして、この詩を読んで心に湧いた動きを言い表わす語彙が、いまの僕にはまだない。言葉を探さなければならない。





ヒナタ@hinata6251412025年8月4日読み終わったわたしはあまり詩を読む方ではないし、この本の編者でもありハンセン病資料館の学芸員でもある木村哲也さんのトークイベントに参加するまでこの船城稔美さんのお名前すら知らなかったのだけど、この詩集に出会えてよかったなーとしみじみ思ってる。船城さんの詩はぜんぜんむずかしくない。社会への怒りも疎外されるさびしさも恋の瑞々しさも切なさも全部ある。そして痛みを抱えた人を一人にしない力がある。デモの場とかで音読されたりするといいんじゃないかなと思う。わたしはこういう詩が好き。これからも何度も読み返したい。



























