
ヨル
@yoru_no_hon
2025年11月6日
塩一トンの読書
須賀敦子
読み終わった
読了
@ 自宅
『「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
(中略)
文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を思い出すことがある。この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、「塩をいっしょに舐める」というのもちょっとおかしいのだけれど、すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける。』p.10~
本のすべて理解したいと思っても、そんなことは到底できないわけで、わたしの理解力の乏しさに、たのしいはずである読書が、まるで修行をしているかのように苦しい時がある。「塩をいっしょに舐める」という言葉がまさしくわたしには当てはまった。その分、自分なりに理解できたり、納得した解釈が見つけられた時の感慨はひとしおなのだけど。
『長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。しかも、ートンの塩とおなじで、その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。』p.11~
須賀敦子の解釈を読んでたら、ずっと懸念してた谷崎潤一郎の『細雪』も読んでみたくなった。










