塩一トンの読書
15件の記録
utautomo@timeescape2026年2月5日借りてきた今日こそは返却のみ!と思いでかけたのに、 棚に戻せなくて借りてきてしまった。 『塩一トンの読書』だなんて。 表紙は岡本太郎が撮影した敦子さんの愛蔵の書である豆本だそう。素敵。





かのうさん@readskanokanon2026年2月1日読み終わった須賀敦子の読書記録。 静かで深い文章 本についての情報に接する機会はあきれるほどめぐまれていて、私たちはいつの間にかその本のことはもう既に知っていると思い込み、その本を「じっさいに読んだ」経験とすり替えて、知識を手っ取り早く入手したことにして、誤魔化していないか? というような事が序盤書いてあってハッとした。 1トンの塩の例えは、姑さんのその人を知るには共に1トンの塩を舐めなければわからないから来ているらしいが、何とも今の世の中、暮らし方に通じる耳の痛い話だ。


ヨル@yoru_no_hon2025年11月6日読み終わった読了@ 自宅『「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」 (中略) 文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を思い出すことがある。この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、「塩をいっしょに舐める」というのもちょっとおかしいのだけれど、すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける。』p.10~ 本のすべて理解したいと思っても、そんなことは到底できないわけで、わたしの理解力の乏しさに、たのしいはずである読書が、まるで修行をしているかのように苦しい時がある。「塩をいっしょに舐める」という言葉がまさしくわたしには当てはまった。その分、自分なりに理解できたり、納得した解釈が見つけられた時の感慨はひとしおなのだけど。 『長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。しかも、ートンの塩とおなじで、その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。』p.11~ 須賀敦子の解釈を読んでたら、ずっと懸念してた谷崎潤一郎の『細雪』も読んでみたくなった。





























