
jirowcrew
@jirowcrew
2025年11月22日
生誕の災厄 〈新装版〉
E.M.シオラン,
出口裕弘
読んでる
「<幸福に>生きようというのなら、いつも心に、免れえたさまざまな災厄を描き出してみる必要がある。これは記憶力にとって償いの一助ともなるはずだ。というのも、記憶力はつねづね、免れえなかった災厄のことばかり蓄めこんで、幸福を冷遇するべく努め、みごとに成果をあげているからである。」
p.87
「「一切は幻影にすぎない」と言いきるのは、幻影の前に香を焚くことであり、幻影に高度の、いや最高度の実在性を認めることである。本当は幻影の権威を破壊せねばならぬはずなのに。
では、どうしたらいい。一番いいのは、幻影を声高に説いたり、告発したり、幻影について考えるという形で、幻影に隷従したりするのをやめることである。すべての観念を失格させる観念は、それ自体が極梏なのだ。」
p.318
2025.11.22
どんな気持ちになるのか、恐る恐る本位の興味で
自身の誕生日に読む。
表面上の期待は見事に裏切られる。
この本には、
災厄どころか希望しか書かれていない、
ように思える。
「逃れえなかった災厄」、
それの最たるものが「生誕」である。
という、
「すべての観念を失格させる観念」。
著者の言う「誕生の災厄」もまた、
著者の言う「幻影」に過ぎないということ。
それが最も著者の言いたかったことではないか
ーー「桎梏」というびっくり箱から
古いスケルトンを脱皮しながら飛び出てきた
軽みを帯びた後頭部、そして
汚れた両手でキャッチする生来のインフィル。
p.318における文章の「幻影」を
「誕生の災厄」に置き換えてみる。
「一番いいのは、誕生の災厄を声高に説いたり、
告発したり、誕生の災厄について考える
という形で、誕生の災厄に隷従したりするのを
やめることである。
すべての観念を失格させる観念は、
それ自体が極梏なのだ。」
この本を手に取ったのは、
「誕生の災厄」というタイトルに
どこか共感を得ていたからこそ。
そして、上記のような発想に至ったのは、
「誕生の災厄」という自身が抱いていた
一種の深刻な観念から逃れたいという、
無意識下の希望に動かされたからこそ。
こういった「反転の操作」を
読み手に為すところがまた、
シオランの底知れぬ創造力ではないか
と思い至り、なんだか、
「ああ生きているなー」
というじんわりとした熱が
冷えた足の裏から湧いてくる。
誕生日、この日限りの惑惑が不惑。
四×四=十七の可能性をまだ残す。
「では、どうしたらいい。」
これがシオランから読者への
最高度の優しさだと感じる。
自身の合理的で右肩下がりの記憶力にさよなら。
また一つの「誕生」、
誰も知らないシンバを掲げる
シオランが産婆(サンバ)
その反復をこそ祝いたい。
