米谷隆佑 "金閣寺" 2025年11月22日

米谷隆佑
米谷隆佑
@yoneryu_
2025年11月22日
金閣寺
金閣寺
三島由紀夫
この作品を、私は「童貞の文学」として読んだ。 精神的な未熟さの象徴としての吃音、女性との性的不能、執拗に追い求める美の権化(それは抽象的な容れ物に過ぎない)、強烈な——あるいは極めて純粋な——他者の影響を受けやすい多感さ、自らの傷を舐めてしまう野生的な癖、破綻した金銭感覚、不登校。成年になることができない主人公が、金閣寺を燃やすと志願しながらも、その達成を自ら遠ざけていく。そうした伏線を幾重にも張り巡らせながら、細部の文体を戯曲的に練り上げた最高峰の文学として読むことができる。 ところで、三島由紀夫が得意とした唯美的な文体——その読みごたえといい、飲み込みにくさといい——この厄介な文体を理解する手がかりとして、「ただ一度きりしか使わない辞書的な言葉」を配置する手法が挙げられるだろう。ぼくはこれが苦手だ。というより、この文体が美しいことを前提として認めつつ、やはり読みにくくなっていて、好きになりがたいのである。これは、日本語が美しい、というのだろうか。詩的な短文を軽妙なリズムで読ませる方法論に、ぼくがまだ十分な理解を持っていないせいかもしれないが、官僚的な言い回しと詩人的な言い回しの両得を図っているのではないか、と邪推してしまう。 三島由紀夫の思想が既にインプットされた状態で読む『金閣寺』は、主人公の独白を利用して作家自身の思想が露呈される作品として読み替えて容易い。だが、彼の市ヶ谷での「結末」を知ってから読む本作——それを知らないうちに読みたかった気持ちが強く、連載当時、刊行されて間もない頃の熱気に晒されてみたかったと思うので、本当に残念でならない。 金閣寺を燃やす、という大胆な発想が、芽吹きつつある主人公の思考を借りて暴かれていく様は、実にわかりやすく読み応えがあると言えよう。実相と抽象、内部世界と外部世界の統合、そして記憶と認識と行為。ここで語られた哲学は全て、現代においても色褪せない道理をもって語られている。先駆的に書かれたという若き挑戦に価値を認める。細部に至るまで力を込めて書かれた文章に打ちひしがれた文学青年はきっと、彼の思想に基づいた生き方を想像し始めるに違いない。 これは、未熟さを強気に書いた作品である。だから根底にあるコンプレックスを認めるまでの過程が、下手くそに、強烈に、男性性的に破壊されて描かれる。歳を取ったときに読むと、また別の感性から思うことが変わるだろう——それが楽しみだ。​​​​​​​​​​​​​​​​
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved