

米谷隆佑
@yoneryu_
よく読みます。
- 2025年9月25日予告された殺人の記録ガブリエル・ガルシア=マルケス読んでる
- 2025年9月16日ひと小野寺史宜読み終わった良かったが、無味とし、説明的で心情や妄想の欠片も感じさせない文体に情が動かなかった。 DNAは、ほとんどのコードに意味がない(とされるが、意味のある部分を調節している機能を支持する研究がある! )。本質は駄文の中に隠れる、木を隠すなら森の中の論理だが、だとしても、だらだらと弛緩した本文の中から「黄金色に輝く木」を見つけることができなかった。拾えなかっただけだろうか。 それにしても、「いや、——」口調が多く、毎度つまづく思いをさせられる。苛立ちを最後まで引き連れて、「ひと」を信じる力の快復を描いた本作は、感動の先も感動も頭を叩いてくれなかった。
- 2025年9月4日言葉の獣(3巻)鯨庭読み終わった言葉に形や生命を与えるため、多感な少女を介して言語化する試みがたまらなく好きで、また買った。 同世代の胸にのこる言葉の獣がたくさん現れる回だったんじゃないだろうか。獣たちの絵の仔細が、「言葉」に向き合った時間だけ濃縮されている気がして、作者の感性を信じて続きを読みたくなる。
- 2025年8月28日このあたりの人たち川上弘美読み終わった改行した瞬間、世界が一変して混乱の町に。いつもの風景が馴染んで安心したと思ったら、不穏な世界に戻される読書体験。たまに元に戻れなかった人や変わった世界に馴染めない人がいる描写に面白さを感じた。 掌編小説らしい、話題を広げて畳むやり方は、4コマ漫画や俳句のテンポに近くて、26ある物語もするするっと読み解けてしまう。川上弘美はひらがなを多用して優しい文体を使って語りかけてくるが、時折りルビが振られてもわからない硬い漢字の意味に揺さぶられることがある。それも、調子を崩す楽しみである。 世界の改変に、続いていた物語の連なりを無視する「概念」の侵入を許したり、身体ごと情報を書き換えるすっとんきょうなユーモアを混ぜてみたりで、始終しっちゃかめっちゃか。世界がめちゃくちゃなのに、物語の核を担っていた友人や隣人が成功者になる。幸せになるのを横目に、語り部は感情を露わにしないのが不穏、不可解、そして怖い。 どこか、ガルシア=マルケスのマジックリアリズムの息づかいを感じるのは、気のせいだろうか。
- 2025年8月18日BRUTUS (ブルータス) 2025年 8/15号BRUTUS編集部読み終わった筒井康隆の短編「似たやつ二人」を読む。音楽と小説の創作と商業的成功は似ているか、という問いに対し、皮肉と機知に富んだ結末を提示していたが、二つの類似点を見つけることがゴールではないのだろう、と思って読み終えた。同じ畑の野菜でも、ナスはナス、ニンジンはニンジンなのだ。 ハン・ガンの短編「白い花」を読む。96年、当時25歳にして著された小説が、本誌を機に初の邦訳。訳者は、やはり斎藤真理子。 筆者の文体によって運ばれた先には、食と命を清める儀式的な日常だった、と思って読み終えた。主人公の食の拒絶と船の同乗者の嘔吐が、ぼくらの身体をネガティヴに震わせ、済州島で聞いたという悲劇の物語が、命の大切さを精神に刻みつけた。 作中の「白い花」が儀式的に「死」を悼み、「白いスーツ」が装束のような異質さながら、しかし老いと男性性の記号に乗ってポジティブに伝わる「死」を包み込んでいたと思う。そもそも題の「白い花」が、いい仕掛けだ。虚構空間全体に淡く白いイメージを帯びて、映像的な美しさを離さない。だが、齢25とは思えない切なさを漂わせていることに対して正直、短編小説の質の高さよりも作者の精神状態が気がかりで、読後感は白く不穏である。 「新作が出たら読みたい日本の作家16人」に朝比奈秋先生の『植物少女』が紹介されていた。個人的に嬉しい。
- 2025年8月11日蛇を踏む (文春文庫)川上弘美読み終わった最初は、蛇が柔らかいと思って読んでいた。踏まれて溶けたり、女に変身したりするから。質量のない蛇を考えていた。小説にできることは、全体の調子を崩さずにうまくまとめることだと思う。軟派なひらがなや川上弘美の文体は、やはり蛇と世界をやわらかくして、淡い輪郭を保ったまま謎を深めて強引に流してしまう点に、彼女の信じる生物と無生物の虚構が見えてくるようだ。現実の蛇は硬い皮膚があって、背骨があって、気温に依存した体温が感じられるはずで、うその蛇とこっちの蛇はどうも違うらしい、ということに気が付いたら、光の中で開かれた「蛇を踏む」の世界がばたんと閉じた気がした。
- 2025年7月25日大きな鳥にさらわれないよう川上弘美読み終わった未来の人類史をテーマにこれほどやわらかく、心情のこもった作品があっただろうか。初めて受けた衝撃にしばらく身悶えした。 SF、というには硬派すぎて、とてもじゃないがこの小説を上手く分類する言葉があるとは思えない。一部分で硬派な科学の言葉を使うけど、会話調にするっと滑り込ませた程度の専門用語で咀嚼が難しくない。 コンピュータ科学と生物学の話に触れることがあっても、全てに既視感があり難しく感じさせない。それどころか、どこかで見たことのあるような景色、心理変化、そして聞いたことのない末路を見せられ、ぼくは巨大な鳥に監視されているかのように漠然と怖くなってしまう。神、かみ?なのかもしれない。信じたことのない神を、一度だけ信じてみるならこの「気配」から探っていきたい。
- 2025年6月19日シュナの旅宮崎駿読み終わった映画『君たちはどう生きるか』のあとでこの本を読むと、宮崎駿の創作が一貫していたことに気づかされ、新作の映画を観たような満足感に心があたたまる。 少年の旅、貧困、少女の真実、避けがたい苦難、幸福に見合う重い罰、救済、得体の知れない生物、海、戦闘用兵器、意地悪な老人たち、健気さと狡猾さ……。挙げたらキリがないが、その後の映画製作時に引用される全ての要素がここにある。
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 6冬目景読み終わった
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 5冬目景読み終わった
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 4冬目景読み終わった
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 3冬目景読み終わった
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 2冬目景
- 2025年6月19日百木田家の古書暮らし 1冬目景読み終わった
- 2025年6月7日族長の秋ガブリエル・ガルシア=マルケス,鼓直読み終わった族長、つまり大統領閣下の死から始まる本作は、章立てて続く物語で、一度も改行されず黙々と読ませるだけの魅力がある。読後感は、まるでクラシック音楽の一定のテンポに様々なメロディを詰め込んで感動させるような、あるいは、新聞紙の事件や日常を隅から隅まで読み込んで朝の日課があっという間に過ぎ去るような、そんな感動が湧き上がる。ガルシア=マルケスの特長とする、繰り返される記号の安心感は健在だ。異様な数、肉体の腐食や秀美、聖体、家畜と部屋、時間や曜日や日付に執拗に拘り、場面の切り替えや句読点的で閑話休題的な休息を与えて、さぁ、虐殺事件やテロが始まるぞ、と文体を一気に引き締めて癖になるのだ。目隠しのジェットコースターは、山や谷に突っ込む前の浮遊感で恐怖を助長するだろう。まさに、そんな感じだ。文章は、常に誰かの口から伝わる「物語り」調であるが、時々、大統領や妻子らの声をそのまま載せてみせるので、どこからが語り口で、どこからが引用なのかが、緩やかに接続されているのが特徴的で、このスパイスは『百年の孤独』になかった味付けとなっている。読者は、誰かの語りを借りて大統領を観察するので、彼の複雑な観念に入れ込むことはない。故に『族長の秋』は、周辺情報から察するに、本当に恐ろしくて悲しくて美しい、国の長の物語なのだ。南米文学の骨頂だろう。日本人の我々には想像できない、独裁者の権威と孤独の歴史は、ガルシア=マルケスが生きた南米だからこそ書けたものなのだと確信できる。今なお取り沙汰される汚職事件や政府の長の短期間での交代劇や、暴力や貧困にあえぐ街を知れば知るほど、筆者の世界観は、まだ続いているように思わされる。つまり、南米のマジック・リアリズムはかなり現実的で、しかも文学的に強烈な皮肉へと昇華されているのだ。なお、この感想文を改行せず書いてみが、ぼくにはまだ早い文体のような気がして、あるいは、安直な真似事のようで恥ずかしくなった。
- 2025年4月30日百年の孤独ガブリエル・ガルシア=マルケス,鼓直読み終わった『百年の孤独』を読み終えた――! およそ1ヶ月、夢中で読み進めた。読後の感想は、まるで強風に巻き上げられた孤独が脳天の頂点まで吹き上がり、愛と虚無の慟哭が胸の奥深くで鳴り響くようだった。終盤の怒涛の展開には、ただただ圧倒された。 (本当に終わってしまうんだ。終わってしまう……。もったいないと思いながらも、止まらず一気に読み進めてしまった。終わってしまう……。脳内には崩壊の風が吹き荒れ、主人公の姿、家、町の情景が嵐のように渦巻いて――ななな、なんだこのイメージ!?) ガルシア=マルケスの語りによって開かれた、あの無限に広がる空想世界が、バタンと音を立てて閉じられた。まるで絵本を取り上げられた子どものように、ぼくは駄々をこねたくなる。どうして終わってしまったんだ!と。 ぼくは暗闇へ突き放された。けど目を閉じても、マコンドのブエンディア家の夏の日照りがまざまざと浮かんでくる。興奮が冷めやらない。 この、清々しいほどの絶望感、果たして、うまく伝わるだろうか。
- 2025年4月20日精選女性随筆集 武田百合子川上弘美,武田百合子読んでる
- 2025年4月20日カンガルー・ノート安部公房読み終わった予想していた物語の三分の一程度の濃度。不可思議な旅も振り返ってみるとそう可笑しく感じないと思ったし、他作の特徴を垣間見る言葉遣いが多く、逆に他で見られなかった視点に気づけたことが、どうやら『カンガルー・ノート』は安部公房文学の交差点にあるのかもしれない、という仮説に辿り着いた。 羞恥心と入れ子構造の関係性、病院の新しい舞台的な意味を与えんとし、地獄のお遍路を通して面白おかしく伝えてくれる展開にぼくは面白さを感じた。当時の「死」の捉え方が変貌する様(夭折と老人の終末期、安楽死をどう捉えるかなど)を読み解くための考証になり得る、と思った。
- 2025年4月20日文庫 ヘッセの読書術ヘルマン・ヘッセ,フォルカー・ミヒェルス,岡田朝雄読み終わった読書の普遍性を説く論調が、神秘性から出発することが少なくむしろ読み易く感じた。 古今東西あらゆる学問に精通したヘルマンヘッセにとっての「息抜き」が、どれほどの効用を自身の生活に与えたのか、そのことについてさまざまな視座から語られる。いろんな説教のなかでも、特に優しい口調のヘルマンヘッセからしか得られない潤いがある、とぼく思う。彼の語り口が、鬱屈とした理不尽な社会を前に、必要に迫られることがある。
- 2025年4月8日ナイン・ストーリーズJ・D・サリンジャー,柴田元幸読み終わった「バナナフィッシュ日和」で始まり、「テディ」に終わる物語は、一言で言い表せない無常の円環を思い起こさせる。 9つの物語に通底する無常さは、書き続けてきたサリンジャーの答えなのかもしれない。本質は感情を抜きにしても伝えることができる。詳しくは知らないが、おそらくサリンジャーの見てきた世界は、感情をぶつけることでメッセージを伝えようとする手法で飽和していたのかもしれない。俳句の世界でいう「輪郭の描写」によって感情や本質を伝えようとすることの方がずっと重要だったと気づいたのかもしれない。 西洋哲学の者が東洋思想に触れた化学反応に読める。神からの脱却ないがしかし、物語の終盤で突き放された読者である我々は、永遠にラストシーンの前から離れられず、ただ祈る姿勢で彼らを見つめるしかないのだ。
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