中根龍一郎 "自称詞〈僕〉の歴史" 2025年12月5日

自称詞〈僕〉の歴史
インタビュー記事や対談記事で、男性の自称詞の揺れはしばしば現れる。校正者はそうした揺れを見つけ出して疑問出しをする。直ることもあれば直らないこともある。私たちは複数の自称詞あるていどノリで使い分けていて、自称詞の揺れは、発話の生き生きとした雰囲気を映し出す効果がある。でも一方で、日本語の自称詞にはフォーマリティを表現する面もある。ここは〈僕〉という自称詞の服を着て人前に出る場面だな、という判断には基づいて、実際の談話では〈俺〉と発話した場面でも、〈僕〉でそろえたほうがよい、ということもありうる。 そうした自称詞のフォーマリティは時節に応じて変わっていく。古事記や日本書紀のような古い文献に見られる〈僕〉が中国語との意識の中で上下関係をあきらかにする謙譲表現の作用を持っているというのは面白かった。明治期の書生言葉としての〈僕〉はエリート的な言葉遣い、ある種の鼻持ちならなさをもつ言葉遣いになっていく。そして、これは本では触れられてはいないけれど、その改まった、インテリジェントな男性発話主体の自称詞は、いま〈私〉に急速にスライドしているような印象がある。男性の〈僕〉はいまの言語感覚では、やや子供っぽく、あえて言うならおじさんっぽい。20代、30代の、昔であれば〈僕〉を使っていたようなキャラクター性をもった男性のアーティストやYouTuberが〈私〉で話す場面に頻繁に出会うようになった。本の中で紹介されている、EXILEメンバーの〈僕〉使用や、矢沢永吉・清原和博の〈僕〉への一人称の変化と、より若い世代の男性の〈僕〉からの離脱は、素朴な直感で言えば実は響き合っているようにも思う。〈僕〉はあるていど丁寧な言葉だった。でも今は、実は〈僕〉は年配男性の言葉としての性格が付与されて、そこに潜む権力が匂い立つ面が 本の最後の章では女性が使う〈僕〉が紹介される。小中学生の女性が〈私〉を使うことで女性としての社会性に巻き込まれることへの抵抗感から〈僕〉を選択し、やがて〈僕〉から離脱していくというプロセスの紹介は興味深い。ただひとつ気になったのは、本の中では男性の自称詞の豊富さに対して、女性の〈私〉という自称詞の単一性の問題が強調される。実際、男性の持つ自称詞にくらべて女性が使える(ことになっている)自称詞幅は狭い。でも実際の言語空間では(私が接するような同年代の女性に限られる話としてだけれど)、女性はけっこう巧みに〈わたし〉と〈あたし〉を使い分けている。よりプライベートな場面では女性も時に〈俺〉を使う(そこには男性性を演じるという、あえての側面も、どうしてもあるのだけれど、この発話は〈俺〉で発話する内容だ、という判断が成立する機会が、ある年代、ある種のコミュニティの女性にはある)。 でも〈わたし〉と〈あたし〉は音声的な差異こそ明確にあれ、文字の上ではおそらく消去され、〈わたし〉に統合されてしまう。この音声の差異の話は意外と面白くて、女性アーティストが使う自称詞、例えばあのちゃんが使う〈僕〉は、〈ぼ↑く〉だ。でもいま仕事の場などで出会う男性が使う、つまり働き盛りの世代の、あるていどフォーマルな自称しの〈僕〉は〈ぼく↑〉だ。〈ぼ↑く〉ではちょっと子供っぽすぎて、それなりに若い男性がそこにフォーマリティを託すのは難しいだろう。この音声的な差異はそれぞれの自称詞の選択が依拠する戦略の違いによるものだろうけれど、文字の上の研究ではなかなか俎上にのりにくい。でも自称詞が託すアイデンティティの問題に、実はその音の話は意外と大事なはずだ。私たちは実際に〈ぼ↑く〉と〈ぼく↑〉をかなり敏感に聞き分け、使い分けているのだから。
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