綾鷹 "読めない人のための村上春樹入..." 2025年12月6日

綾鷹
@ayataka
2025年12月6日
読めない人のための村上春樹入門
村上春樹の小説は定期的に読み返したくなる、小説の中の言葉が響く、それはなぜなんだろうと思っていたが、この本を読んで納得。 自分自身の不自由さ・生きづらさがあるからこそ、村上春樹の小説に惹かれるのだな。 「こうやって行動するべき!」と謳うビジネス書を読んでも救われない理由も理解。 自分にとって「自由を生きる」とはどのようなことか、考えながら再読したいと思った。 ・村上春樹はデビュー以来一貫して「自由を生きる」というテーマを扱っている ・世界的に人気の理由は「共感」、また、不安定な社会でブームになる ・資本主義の浸透による消費社会と競争社会→人々の絆の希薄化、生きる目的や生きがいの不明確化→村上文学に共感、村上文学を通して生きる指針を探そうとしている。 (封建社会が崩れたとき、人々は生まれた時から固定された社会的秩序の中で生きる人生から解放されて「自由」になったはずだったが、同時に決められた役割を果たすことによってそれまで与えられていた帰属感や安心感を失った。さらに、資本主義の競争社会に投げ込まれることで不安と孤独に苦しむようになった。=自由とは不安と孤独と切り離せないものになり、固定されていない不安定な自分を引き受けるという、新たな苦しみを生じさせた。) ・村上が考える自由とは、思考や行動を制限する外部の何かから解放されているor離れている+自分が不自由であることに気づき、そこから距離を置くための行動ができるいう意味 ・視点を複数化させ、それまでの肩念や思い込みに対して新鮮な発見を加えてくれるもの、それによって世界・自分についての理解を深めてくれるもの、それが村上の言う「善き物語」。つまり、「言われたとおりにしなさい」と思考を制限しようとする何かがあっても、閉塞的な思考の習慣が「間違い」であると気づいてそれを押し返そうとする。そんな原動力を与えるものが「善き物語」 ・自分がそれまである種の考えを無意識にじていたと気づくとき、またはそれまで正しいと言じていた考えの正当性に疑問を持つとき、人は立ち止まり、思考し始める。思考の積み重ねは主体性を育てる。村上はこのように、啓蒙的に「どう生きるべきか」を指南するのではなく、気づかせて考えさせることで、思考力という名の「盾」を読者に身につけさせようとする。 ・自己否定とは自分のコントロールを放棄している状態でもある。それは自分とは外部の何かにいつも翻弄される存在であると認める状態。前に進もうとする自分を妨げる存在。そこに自由はない。自由とは自分への言頼を前提とする。これまでに重ねた経験の上に立つ自分という存在を肯定することで、自分への信頼は生まれる。 ・善か悪かという考え方が多くの問題を作っている。絶対的な善を信じるから、絶対的な悪という存在があると信じ、それを探す。そして悪を非難することで、自らの善を証明しようとする。この方法による自己認識は、依存関係を作り出す。 ・相手の「悪」に依存した自己肯定では真実に辿り着けない。絶対的な悪なるものに近いものがあるとすれば、それは、絶対的な悪なるものがあると信じる心、そして相手への攻撃を正当化するような考え方のことだと言える。 ・外の現象を変えたければ、まず自分が発する「響きやふるえ」から変える必要がある。望む結果に合わせて、自らの「響きやふるえ」を変えれば、外の現象に振り回される不自由さを抑えられるかもしれない。攻撃的なエネルギーを愛のエネルギーに変えれば、外の現象も愛をまとったものに変化するだろう。 ・人は辛い経験をすると、傷つけた相手を特定し、被害者としての自己像を作り上げるが、実際には、傷を深めたのは自分の想像かの豊かさであったかもしれない。想像力を創造的な行為のために発揮することには価値があるが、自分を傷つけるような仮説を作り上げ、それを支える証拠を探させるような想像力は手放すべきだということを、村上文学は伝える。 ・なんとなく生きる人々は、自らの人生の責任、もっと言えば、自らの存在の重要性を認識するという責任に、気づかない。生きる上で必要なはずの選択を、別の誰かに任せているのだ。自分では自らの意志にもとづいて選んでいるつもりでも、よく見れば、与えられた選択肢の中から、周囲に合わせたり、空気を読んだりして無難そうなものを選んでいるだけだとしたら?そして、その選択が他者に甚大な影響を与えているとしたら?想像力が如したために<器>となり、悪の行為に邁進したアイヒマンと、自分の空虚さのせいで恐ろしい目に遭い、のちに自らの役割を見出していくナカタさんを、『海辺のカフカ』は対比的に描いている。 ・村上作品には「システム」(組織)という大きな存在が繰り返し描かれる。主人公たちはシステムに立ち向かうことを求められるが、その消滅が物語のゴールになるわけではない。個人はシステムの恩恵を受けずには生きられないからです。重要なのは、(私たちが「システム」を作った)という事実を忘れず、システムに不自由な生き方を強いられることがないよう、賢く付き合うこと。 ・料理や家事は家庭などの閉じた空間で行われるため、社会的な評価は期待できない。だからこそ、できるだけ手間と時間をかけたくないと私たちは考えがち。しかし、他人から評価される行為でないからこそ、また、対価を受け取るための行為でないからこそ、自らの自由な意志でそれらを丁寧に行う主人公たちを描くことで、村上は読者に、「自分は何を強制されているのか」を気づかせようとしていると言える。消費社会の都合で出来上がった豊かさや幸福の概念に縛られて不自由に陥り、自らが肩じる(豊かさ)を生み出すことができていないのではないかと、村上文学は問いかける。 ・「常識」とは必ずしも倫理的で正しいものではなく、社会や権力にとって「都合がいい」理由で形成されることが少なくない。それを多くの人が疑問を持たず受け入れ、他人に押し付けることもある。 ・経済的生産性という統一性が軸になる世界とは、村上が懸念する「悪しき力」が支配しやすい世界でもある。「粗雑で単純な物語」に人々が魅力を感じ、現実の重層性に意識を向けようとしない。そして<こちら側>の都合に合わないものが取り除かれることに合理性を感じる。そんな世界である。一面的な価値観に囚われると、人は自らが所属する社会の方向性を冷静に観察する姿勢を失う。 ・与えられた金額内に自分の労働力をはめ込まれることに私たちは慣れている。自らの時間に自分で値段を決めるようなことは許されない。合言葉は「しょうがない」です。 そのシステムに慣れてしまうと、自分の一時間のもつ価値について考えることはない。自分の価値を自分で決めるのではなく、査定されることに慣れているのである。 時間は命。私たちはみな寿命を持って生まれてくる。つまり有限の時間を与えられて生きている。そのうちの一時間に値段をつけるということは、命自体に値段をつけることであるとも言える。労働を通した交換システムを受け入れる限り、私たちの命は外部の誰かによって査定され続ける。 ・資本主義社会が前提とする交換という行為が、生き方の基準を作り、かつその基準は人生の豊かさではなく、市場の豊かさを目指すために設計されているということに気づくよう村上の作品は訴える。 ・どんな時代にあっても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。〔中略〕 想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。(中略〕我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。 (「職業としての小説家」25頁) ・私たちは時間を売ることで命を切り売りしている。その命の犠牲に意識的になれば、交換を避けられない世界で、より深く思考し選択しようとする意識が育つだろう。社会システムには簡単に対抗できないとしても、思考はいつでも束縛から自由になることができる。その自由の前提になるのは、現実の重層性をじっくり観察する意欲と、思考する自分への信頼。 ・本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。 (『走ることについて語るときに僕の語ること」22頁) ・「効率の悪いこと」が「価値のないこと」だと判断する基準は自らが納得して作り上げたものではないと気づくこと、そしてそれを「卒業」することーーこれらが自由に向かうための出発点であることを、村上作品は教えてくれる。
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