綾鷹
@ayataka
2025年12月9日
一般的な家庭で自分は育ったと思うし、両親にも感謝している。
でも、幼い頃にこういう対応をされて辛かったと心に残っている記憶が複数あり、自分の子供が生まれたことで読んでみようと思った。
心の中で自分も子供に嫌なことをしてしまうのではないかと不安に襲われることがあったが、「親子だから、子が親に頼るのは当たり前だ。逆に、親子だから親が子どもに頼るのも当たり前だ。その両方があれば、親子はうまくいく。」という言葉に心が軽くなった。
私も後悔することを言ってしまうかもしれない。でも、子供も親のためにと頑張ってくれている。たくさんの幸せをくれる。それに気付けるようでありたいし、子供に対して感謝できる心持ちでありたい。
そして、実際に悪いことが怒った訳ではないのに不安に駆られて本を読むことも、自分の幼少期からの体験に由来しているのだな〜と自分を振り返るきっかけにもなった。
・心の発達とは、この世界に心を開いていくと同時に、心の何かを閉じていくプロセスである。
「この世界は、こうである」と、世界を理解し、その中で生きていくのに必要な「心の枠」を作り上げる。それが社会に適応して「大人」になることだ。しかし、大人になってそのプロセスを忘れてしまうと、いつしか、「この世界はこうでしかない」と思ってしまう。そう思うと、解決のつかない苦しみや悩みができてくる。
その時は、一度そぎ落としてきたものをもう一度自分の心の奥底に探ってみるとよい。世界は違うものではなかったか?
視点が変わり、焦点が移ると、解決できないと思っていた苦しみや悩みが解ける。
・生まれた時から赤ちゃんに備わっている体の機能を「生命システム」とし、これから地球に適応するために学んでいくであろう心の機能を「心理システム」と呼ぶことにする。生命システムは食べる、寝る、泣く・・・の機能である。心理システムは、人とのつき合い方、人生観や、善悪を判断する倫理観などの生き方の機能である。そこから毎日の生きる意欲」が湧いてくる。
お腹が空く、大声で泣き始める。すると美味しいおっぱいがもらえる。
それが最初のメッセージのやり取りであろう。そこから子どもはこの地球上のルールを学び始めて、次第に、親とのつき合い方、人とのつき合い方、社会のルール、善悪の判断、価値観を貪欲に学び、取り込んでいく。この時期に母親から教えてもらったことは、その子の一生を方向づける。
・人間の発達段階
(1)「乳幼児期」心身ともに親と一体の時期(•~三、四歳)
(2)「学童期」親と一緒に生きる時期(四、五歳~一二歳)
(3)「思春期」親から精神的に自立していく時期(一二歳~二〇歳ころ)
(4)「成人期」適応が完成し、社会の中で生きる時期(二〇歳ころ~)
(5)「宇宙期」「この世界」を抜けだす時期(成人期以後~)
・一二歳のころまでは、子どもは無心に親を真似て、生き方を学び、それに従っていく。親をじて疑わない。すべては親が基準である。それは、やがて大人になって生きていくときの大切な心の基盤となる。
しかし、親も完璧な人間ではないから、気持ちの偏りや悪い心、嘘、辛い気持ち、間違った生き方をかかえている。子どもはそういった親の「心の矛盾」もまた無心に、まるごとコピーする。
・反抗期の激しさは、親が教えた「心の矛盾」に比例する
・親子だから、子が親に頼るのは当たり前だ。逆に、親子だから親が子どもに頼るのも当たり前だ。その両方があれば、親子はうまくいく。しかし、親がかかえてきた苦しみゆえに、頼り方が一方通行になってしまうと、子どもの苦しみは大きくなる。
・親が子どもに頼ってきた関係が見えれば、それは認識の大きな前進だ。多くの親は、子が親を頼り、親が子どもを育ててきた側面だけを見ている。しかし、一緒に生活している家族なのだから、たとえ子どもがまだ言葉を話せない赤ちゃんであったとしても、親は子どもに頼り、子どもに助けられている。おっぱいをもらって満足している赤ちゃんの顔を見て救われるのは母親だ。赤ちゃんほど母親の存在を全身で認めてくれる存在はないだろう。だから、親子が頼り、頼られているのはとても自然な家族の関係だ。
・「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。しかし、虐待を受けた子(人)の自問は、より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。
虐待を受けた子(人)が自分の存在を確認する唯一の方法は、自分を抑えることである。自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。
我慢だけが「いる」ことの「手ごたえ」であれば、そこに「生きる喜び」は生まれない。喜びは自分の欲求を認めてもらい、満足させてもらって初めて感じるものだから。
・目の前にいる親は、暴力を振るい、ご飯も出してくれないことがある悪い親である。でも、子どもはそれ以外の親を知らない。自分が生き延びていくためには、その親に従うしかない。人は誰でも生きていこうとする。そのために必要なことを実行することが「善」である。だから、子どもにとっては、目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」となる。悪に耐えることが「善」で、善を求めるのが「悪」である。こうして「普通の」人とは善悪が逆転する。これを裁判に当てはめると、悪い夫に耐えることが善であり、夫と争うのは悪となる。
善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていたほうが不安は小さいからだ。
・彼女に父けているもの、それは自分がこの社会で生きているという「無条件の存在感」である。これは、心理システムの土台になっているもので、自分が他の人々と一緒に生きているという疑いようのない感覚である。つまり、同じ世界に生き、同じものを見ていると確言し、同じものをいいと感じ、同じものを嫌と感じ、いちいち言葉にしなくてもそう思い、伝わり、利害を共通にしているという感覚である。
これを「社会的な存在感」と呼ぶことにする。
彼女には「社会的な存在感」が欠けている。あるいは、あってもあいまいである。
「社会的な存在感」は何によって生み出されているかというと、それは、「自分と他人が同じものを求めて生きている」という日々の実感からである。
・人が人生に求めるものは、四つあると述べた。人は、第一レベルでは、「安心」を、
第二レベルでは、「愛情」、「お金」、「賞賛」を求めて生きている。
これらのうち、第二レベルを共有しているという確肩が、「社会的な存在感」を生みだす。美味しい物を食べて、「美味しいね」と確認しあえる関係が広がってできたものである。
「愛情」とは、家族の愛情、理解、異性を求める気持ち、恋愛、結婚、子育て・・・・と、人とのつながりである。これを求めている、求めたい、みんなも欲しがっていると感じられていることが、自分が「同じ社会で、人とつながっている」という存在感を生みだす。
「お金」は、衣食住という物質的な生活を支えるものである。みんなこれを欲しがっている、自分も欲しい、手に入れたら同じように嬉しさを味わう。これが「同じ社会で、一緒に頑張っている」と感じさせる。
「賞賛」を受けたい気持ちは、親から褒められること、親から必要とされることを基本にしてできあがり、他人に爽めてもらうこと、人から必要とされること、認められること、社会に貢献すること、社会的な名誉を得ること、勲章をもらうこと・•・となる。そうされたい、そうしてあげたい、自分もみんなもそうだ、と当たり前に分かっていることが「同じ社会を、みんなと一緒に作っている」という感覚だ。
この三つの欲求の成就と失敗を、毎日、毎日、人と一緒に繰り返していることが「社会的な存在感」となる。
この「社会的な存在感」はあまりにも当たり前で、誰にでもあるので、「普通の」人には、それが「ない」ということが想像できない。
・心理システムは、生命システムの上に後天的に作られる。その目的は生命システムを維持しながら、この世界でよりよく生きていくことである。人とのつながりを維持し、善悪の判断を行い、行動の指針を与える。それは親から継承され、社会の共通の倫理観とつながっている。思春期を過ぎて一人前の大人になった時に、心理システムは一応の完成をみる。
心理システムは、自分がこの社会に生きているという「社会的な存在感」=生きている実感を、日々、生成する。それは、自分が周りの人々と同じものを求めて生きている、つまり、「愛情」、「お金」、「賞賛」を求めて生きているという疑いようのない感覚である。その結果、自分が他人とつながっていると感じる。その感覚を確実なものにしてくれるのは、共通の倫理観(善悪)だ。
・善悪の相対化とはどういうことかというと、人と仲良く親しみを感じて交流することもできるし、人を裏切って陥れることもできるということである。もし、劇画の主人公ゴルゴ13、非情なスナイパーである彼が、一方で温かい家庭を持ち、優しい妻と可愛い子どもに囲まれていたとしたら、それが価値の相対化のイメージである。
また、頑張ること=善、頑張らないこと!悪と固定するのではなく、頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいと思えることが、善悪の相対化である。
生死について言えば、生という善と、死という悪の二元対立、その相対化である。つまり、「死」を避けながら「生」きるのではなくて、二つの対立から「離れる」。そうして、生と死はともに新しい土台の上で、同等に扱われるようになる。言い方を変えると、生を否定しない死の受容である。
その心理段階では、人は社会の中で生きながらも、社会から離れることができるし、社会を楽しみながらも、社会に頼らず、ドライに生きることもできる。
・カウンセリングは悩みを解決する作業ではない、自分を確認する作業である。
自分の話をする。自分の心を聞いてもらって、その時の自分を確認する。話の内容は、辛いことであってもいい、楽しいことであってもいい、ひどいことであってもいい、あるいは、実現しそうにない夢や「妄想」であってもいい。しかし、語ることが、話し手の存在感を確かなものにする。そうして、話の内容が、どんなことであっても、自分を認めていく作業は心を安定させる。
カウンセリングとは、この「聞く作業」である。
耳を傾けて、クライアントの発している言葉の奥底にある、その人の「存在」を聞く。
「存在」をどこまで深く見通せるかどうかが、カウンセラーの力量である。
・慢性病棟に長期に入院している患者さんにも、心の安心、心の解決があるように、クリニックに来院した、親をもてなかった人々にも心の解決があった。共通なのは、悩みを解決するということではなく、自分の存在を確認するということであった。二つがつながった。
カウンセリングとは、その人の生き方とか、悩みを聞くのではなく、「存在」感を聞く、「存在」を確認するものである。その結果として、生き方を変えたり、そのまま安心したりする。しかし、それは単なる結果である。
存在は、この世界に生まれてから、社会的な存在感を身につけて生きるようになっても、それをもてないまま生きていても、あるいは、そこを抜け出してからでも、変わらずにずっと「ある」。人と人とが向かい合って、この「存在」を確認しあう作業、それがカウンセリングの本質である、そう、私は患者さん(クライアント)から教えてもらった。