中根龍一郎 "たとえば「自由」はリバティか" 2025年12月10日

たとえば「自由」はリバティか
古井由吉の『神秘の人びと』を読んでいたとき、「〈彼は目をひらきながら何も見えなかった。そしてこの無は神であった〉というような言葉」の解釈について、古井が立ち止まり、思い悩むところをとても面白く読んだ。sah er mit offenen Augen nichts, und dieses Nichts war Gottという文を前に、古井は「無を見た時、神を見た、と私などはただちにそう取りたくなる。そう思わせるところのものが私の内に、おそらく伝統として、埋めこまれているようなのだ」と書き、その神性としての無、無としての神聖のイメージを描写してみせる。でも古井はそこで立ち止まる。「しかし戒めたほうがよいと思われる」。名詞化されたNichtsと、sahを受けるnichtsは、言ってしまえば同じく「無」でありながら、文法上の役割の違いから、そこにある緊張関係をにじませている。 無というと座りがよくなる。無という言葉は私たちの日本語の空間にそれなりの場所をもっており、私たちはなんとなく無の観念のもとに、無の諸相をとらえてしまう。でもそれは西欧語で指される無とはずれていく。 哲学は概念を言語上の操作で捉え直していく学問だけど、西洋哲学を勉強しようとすると、だいたいそのもとになる言葉が指している内容と、日本語の日常語の語感が指す内容のちがいに苦労することになる。勢い、哲学の学生は原語の持つ語感に敏感になる。でもそれは哲学というニッチなジャンルのなかの話なので、食い違いは意識しやすい。問題なのは日常語化した外来語が自然と前提していた観念を、私たちが、その前提を知らないまま、しかしそれが日常語として通用するがために、なんとなくわかっているような気になり、そして実際、日常の用はほとんどそれで足せることにある。 知らない言葉の前で立ち止まることはできる。でも知っている言葉の前で立ち止まることはむずかしい。 この本の中では六つの事例が出て、どれも興味深いのだけど、とりわけ印象的なのはsocietyの観念だった。日本では〈社会〉という言葉で一般に語られているもののなかにかなり強く〈世間〉のイメージが混入しており、われわれひとりひとりが構成員であるsocietyに対し、世間はどうしてもある主体に対する外縁的なものを指す、という話で、それはなかなか深刻な問題だ(とりわけ、個人の社会的な活動が倫理的な要請とともに重視される今日においては)。もちろんsocietyやliberty、publicやnatureといった言葉の、西欧語での概念を前提しなくても、日本語圏での議論はあるていどなんとかなる。でも言語上の壁というのはテクノロジーによるマルチリンガル化によってこれからどんどん、見かけ上はなくなっていく。そうやって見かけ上の壁がなくなったあとに、諸概念が前提する世界観のようなものが、訳し損ねられて残る。その世界観は西欧だけでなく、日本の幕末から明治期の急速に変化した言語空間、その言語空間を下支えした中国的な教養によって形作られたものだ。私たちはそうして形作られた言語を継承し、母国語とし、そして母国語について何を知らないかを知らない。私たちの言葉は私たちのものではないものとつながっている。私たちはしばしばそれを見失う。そうした言葉の外部の事例を知り、記憶することは、私たちが言葉の前でつまずき、立ち止まることを助けてくれる。なめらかに進まないことを助けてくれる。
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