
ジクロロ
@jirowcrew
2025年12月11日
イデオロギーの崇高な対象
スラヴォイ・ジジェク,
鈴木晶
読んでる
「(『高慢と偏見』における)ダーシーの高慢さは、彼とエリザベスとの関係にかかわりなく存在している単純で肯定的な状態ではない。つまり彼の本性の直接的特性ではない。それはエリザベスの偏見の立場から見たときにのみ生じ、姿をあらわすのだ。その逆もまた然りで、エリザベスは、ターシーの傲慢な視点から見たときにのみ、うぬぼれ屋で愚かな少女なのだ。このことをヘーゲルの用語で述べるとこうなるーー他者の中に見つけた久点の中に、われわれは、それとは知らずに、自分自身の主観的な立場の虚性を見出すのである。他者の欠点とは、われわれ自身の視点の歪みを客体化したものにすぎないのである。」
自己の欠点が他者の虚性を照らし、他者の欠点が自己の虚性を照らし出す。ここがものすごく興味深い。
他者の欠点に怒りを覚える、怒りとは信号であり、その瞬間に自己の欠点が炙り出されているということに気づかねばならない。
イワンの傲慢がスメルジャコフの卑屈を肯定し、同時に得体の知れない怒りを察知する。そしてスメルジャコフの卑屈が父殺しへと成就し、イワンの傲慢をへし折る。「カラマーゾフ的」とは、この血族どうしにより照射された欠点と怒り、それに導かれ引き出される行為そのものであるということ。
無意識の願望に気づく、その鍵は「怒り」にあるということ。

