綾鷹 "きみは赤ちゃん" 2025年12月12日

綾鷹
@ayataka
2025年12月12日
きみは赤ちゃん
きみは赤ちゃん
川上未映子
妊娠中に図書館で借りて読んだが、 出産後、また読みたくなって購入。 私の中にこんな幸せな感情があったとは。 この本を読むと、思い出して心が温かく、そして涙が出てくるような、なんとも言えない気持ちになります。 ・気がつくとわたしはずうっとそんなひとりごとをしゃべっていて、そして「そうよ~、いるんですよ~」というぷう先生の声をきいていると、ぶわっぶわっと両目から涙がでた。最初に妊娠を確認してもらった産院で、ごま粒みたいな赤ちゃんをみたときにもおなじような気持ちになったこれは、いったいなんといえばいい気持ちなんだろう。胸の底のほうからおしよせてくる、うれしいとも、感動とも、いとしいとも違う、あるいはそれらをぜんぶ足してまだ足りないような、ただ温かくてつよさに満ちた動き、としかいいようのないもの。こみあげたそれがあふれかえって、それがぜんぶ涙となってこぼれてゆくようなこの気持ち。いっぽうで、プローブを動かし、さまざまな角度に切りかえながらモニターを凝視するぷう先生の表情のすべてがものすごく気になるのだけれど、でも、このときわたしは、不安よりも心配よりも、なんだか問答無用の温かい水のなかに浸っているような、全身が妙に安心したような、そんな感覚に一気に包まれたのだった。 ・人は、すべての存在は、いったいどこからやってきて、いったいどこにいくんだろう。なんで、こんなわからないものやことを、わたしたち、やってのけることができているんだろう。そして、生まれてこなければ、悲しいもうれしいもないのだから、だったら生まれてこなければ、なにもかもが元からないのだから、そっちのほうがいいのじゃないかと、わたしは小さな子どものころから、ずうっとそんなふうに思ってきた。人生は悲しくてつらいことのほうが多いのだもの。だったら。生まれてこなければいいのじゃないだろうか。生まれなければ、なにもかもが、そもそも生まれようもないのだもの。そんなふうに子どものころから思ってきた。だけど、わたしはいま自分の都合と自分の決心だけで生んだ息子を抱いてみつめながら、いろいろなことはまだわからないし、これからさきもわからないだろうし、もしかしたらわたしはものすごくまちがったこと、とりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれないけれど、でもたったひとつ、本当だといえることがあって、本当の気持ちがひとつあって、それは、わたしはきみに会えて本当にうれしい、ということだった。きみに会うことができて、本当にうれしい。自分が生まれてきたことに意味なんてないし、いらないけれど、でもわたしはきみに会うために生まれてきたんじゃないかと思うくらいに、きみに会えて本当にうれしい。このさき、なにがどうなるかなんて誰にもなんにもわからないけれど、わからないことばっかりだけど、でもたったいま、このいま。 わたしはそんなふうに思って、きみを胸に抱いて、そんなふうに思ってる。 ・目のまえの、まだ記憶も言葉ももたない、目さえみえない生まれたばかりの息子。 誰がしんどいって、この子がいちばんしんどいのだ。 おなかのなかからまったく違う環境に連れてこられて、頼るもの、ほしいものはわたしのおっぱいしかないのだ。 こんなふうに両手にすっぽりとそのからだのぜんぶを抱っこできる時間なんて、この子の一生からみてみればあっというまに違いない。 深呼吸して、顔をみよう。生まれてきた赤ちゃん。手足。 たしかに眠ってなくてほぼ限界だし気絶するほど眠いけど、でもこの時間、この子のこの顔をみつめているのはたったいまここにいるわたしだけで、世界中に、いまここにしかない時間なのだ。 この子はきっと、すぐに大きくなってしまうだろう。こんなふうにわたしに抱かれているのも、あっというまに過去のことになってしまうだろう。誰にも伝えられないけれど、でもわたしはいま、きっと想像もできないほどかけがえのない時間のなかにいて、かけがえのないものをみつめているのだ。そして、夜中を赤ちゃんとふたりきりで過ごしたこの時間のことを、いつか懐かしく思いだす日がくるのだと思う。 そう思うと疲労困憊から自然にたれてきた涙とはちがう、熱い涙が流れて止まらなくなった。がんばれ赤ちゃん。そしてわたし。指さきでまだやわらかい赤ちゃんのおでこを何度もなでて、『七つの子』をうたって寝かしつけると、赤ちゃんはその夜はじめて連続で4時間眠ってくれた。わたしも少しだけ、眠ることができた。 ・なぜ、こんなにかわいいのだろう。 ものすごく小さくて、ふにゃふにゃで、赤くて頼りなくて、皮の刻けかけみたいなのがほっぺたとか手足にまだくっついていて、もちろん笑ったりなんかしないし、声だって泣き声以外は「エ・・・・・・」とか「ホニャ」とかそれくらいだし、ただそこにいて息をして泣いて、おしっことうんちをして、おっぱいを飲むだけ。なのに(だからなのか?)、いままで人間にたいして抱いた感情のなかではダントツでいとしいとしかいいようのない気持ちが、どうしてこのようにとめどもなくわきあがってくるのだろ とにかく、どれだけみつめてもみつめたりず、みればみるほど、胸のあたりがほやーっとして、なんともいえない気持ちになるのである。この感情をひとことでいうなら、単純に「至福」みたいな感じになってしまうのがあれだけれども、でも本当に、そんな感じなのだよね。 ・多くの人がそう感じているように、自分が生まれてきたこととか、世界があることとか、物が存在することとか、そういったことは、ただそれがそうあったってだけのことで、こうだっていえるような意味なんてないよね、とわたしもずうっと思ってきた(この場合の「意味』がなんであるのかは、さてき)。だからこそ、「人生には意味がある」とかいいたいわけだし、あとづけしたいわけなのだし。運命とか必然とか、感じてみたくなるわけだし。 で、これも、もちろんそれらとおなじ、ただのロマンティックでナルシスティックな感傷にすぎないのだけれど、でも、息子に会えたのがなぜかといと、わたし自身が存在していたからであって、わたしが存在していたのは親がいたからであって、その親が・・・・・と、こう、“艶が遡ってゆくときりがないんだけれど、でもとにかく、無意味なりにも生まれてきたわたしがこうして生きていて、そして息子に会えた、と。これはまあ、事実だった。生きることに理由も運命もいらないけれど、でも、思わず、「わたしはこの子に会うために、生まれてきたんじゃなかろうか」とうっかりいってしまいそうになるほど、わたしにとって、息子との出会いは、大きな大きなできごとだった。これまでの経験とか感情とかが、息子をめがけてなだれこんで、そこからなにかがはじまるような。これまでのぜーんぶが、生まれてきた息子にしゅうっと収斂されてゆくような。こんな感覚、どう考えたって恥ずかしいけれど、でもこれが素直な気持ちなのだから、さらにますます、恥ずかしい。 ・四六時中なにかに追われながら、まだ涼しい午前中にはオニを連れて、近所の公園まで歩いていった。ベンチに座って抱っこひもからだして、「ほれ、木の葉っぱがゆれてるよ。風が吹いているからだね」と話しかけると、じいっとみているような、そうでもないような。オニ、かわいいオニ。考えてみれば、おまえとはまだおしゃべりしたことがないんだねえ、なのに、こんなに大好きなのは、なんでかねえ。しゃべれるようになったら、最初になにを話そうかねえ、おかあたんもあべちゃんもおしゃべりだから、家のなかがうるさくってたいへんだよ。早く大きく、ゆっくりなってな。 そんなことを話しかけながら、公園のベンチに座って、いつもつぎの風が吹くのを待った。 ・そしてなんのにおいなのか•••・・オニを抱いて皇を近づけるとたまらなくしあわせな匂いがするのだ。おっぱいのにおいなのか、赤ちゃん独自のにおいなのか・••・・・とにかく、かげばかぐほど、自分の汚さのようなものが浄化されるんじゃないかっていうくらい、それはものすんごいいいにおいで、巣鴨のとげぬき地蔵を囲んでお線香の煙を「ありがたや~ありがたや~」つって、一心不乱に体にこすりつける人たちの気持ちがようやくわかるような気がした。 ・朝。抱っこしたままでわたしの背中のほうにあるカーテンをあけて、空をみせてやオニの顔がぱあっと明るくなって、笑顔になって、目がどこまでも大きくなって、つやつやと濡れて、光っている。じっとみつめると、小さな目に空が映っている。わたしはそれを1秒だって見逃すまいと、まばたきもせずにみつめつづける。放っておくと、わたしの目からは涙がたれてくる。まだ言葉をもたないオニ、しゃべることができないオニは、まるでみたものと感じていることがそのままかたちになったみたいにして、わたしの目のまえに存在している。オニはそのまま、空であり、心地よさであり、空腹であり、ぐずぐずする気持ちであり、そして、よろこびだった。オニは、自分がこんなふうにして空をみていたこと、なにかを感じていたこと、泣いたこと、笑ったこと、おっぱいを飲んでいたこと、わたしに抱かれていたこと、あべちゃんに抱かれていたこと、こんな毎日があったこと、瞬間があったことを、なにひとつ覚えてはいないだろう。なんにも、思いだせないだろう。でも、それでぜんぜんかまわないと思った。なぜならば、この毎日を、時間を、瞬間を、オニが空をみつめてこのような顔をしていたことを、わたしがぜんぶ覚えているからだった。そしておなじように、かって赤んほうだったわたしも、おそらくはこのようにして空をみていたときがあったのだ。空をみていた赤んぼうのわたしの目を、いまのわたしとおなじょうに、みつめていた目があったのだ。そして誰にもみつめられなくとも、すべての赤んほうの目は、このように空を映していたときがあったのだ。オニの目に、空が映っている。 オニもいつか、遠いいつか、このようにして赤んぼうを胸に抱いて、そして、空をみる目をみつめるときが、くるのだろうか。 ・オニはすやすや眠っている。またしばらくしたら「エッエッ」とむずかって起きてくるだろうから、わたしもオニを追いかけてこのすきに眠らなければ。小さく、ドビュッシーのペルガマスク組曲をかける。「月の光』になると、なにもかもがいつせいに匂いたつように甦ってくる。オニとふたりの病室で、オニとふたりの真夜中に、ずうっとこの曲を聴いていたから、メロディが流れてくると、あのときのなにもかもがやってくる。おなかの傷の痛みのせいで、オニになにかあっても飛んでいけないのがこわかったこと。オニが小さくて小さくて、本当に生まれたてだったこと。オニが生まれてきたこと。オニに会えて、本当にうれしかったこと。小さなオニを胸に抱いて、小さく息をしながら眠るオニの顔をみながら、こんなしあわせがあったのだと、ほんとうにしあわせだと、心の底から、思ったこと。 どうか、どうかなにも終わりませんように。 ・ハイハイをして、つたい歩きをして、そして歩こうとしてしりもちをついて楽しそうに笑うオニをみていると、この1年にあったいろいろなことがとめどもなくおしょせる。生まれたばかりで、あんなに小さかったオニは、いまこうやって両手と両足をのばして、世界を少しずつ広げて、そしてからだはもっとしっかりとして、走りまわって、すぐに大きくなってしまうだろう。いろいろなことを忘れながら、新しいなにかに出会いつづけて、そしてすぐに、わたしのそばからいなくなってしまうだろう。 オニがおなかにやってきて、そして生まれてから今日までのこの時間は、誰かが、なにかが、わたしにくれた、本当にかけがえのない宝物だった。おまえはおかあたんの赤ちゃん、おかあたんの赤ちゃん、と呼びかけながら、ぜんぶを抱きしめることができた日々。きみは赤ちゃんだねえといいながら、ころころと笑いあった日々。だいすきなオニ。わたしの赤ちゃんだった日々。両手にすっぽりくるむことができた、きみが、わたしの赤ちゃんだった日々。 オニがこっちをみている。小さな手をふっている。なにーといいながらオニのそばにいく。抱っこしようと手をのばすと、ウン、といいながらゆっくり立って、一生懸命、歩こうとしている。背をむけて、足を動かして、むこうに一歩を踏みだそうとしている。もう赤ちゃんじゃなくなった。もう赤ちゃんじゃなくなった、オニ。どうか ゆっくり、大きくなって。きみに会えて、とてもうれしい。生まれてきてくれて、ありがとう。
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