
ばるーん
@ballo____on
2025年12月13日
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい
大前粟生
読み終わった
著者の作品はデビュー作を読んだきりで、それは結構面白く読んでいたから、本書には全く違った印象を受けた。とりわけ、優しさとユーモアについて考えた。実生活でも小説でも、優しさは必要だけど面白がられない(というか面白くない?)。それが結構悲しいし傷つく。面白さだけで生きていられたら、世界がこんなになっちゃってるのを、はたと気づいて、もう何にも喋れなくなるし、反省するばっかりで、だんだん面白くなくなるし(表面的に)優しくなる。気安く生きられない。それがまっとうな大人かもしれないけど。
表題作は(強引に)意地悪な読みも可能で(というかいろんな読みの可能性に溢れていて)すごかったし、『コンビニ人間』ぐらい流行ってもいいのに!という気持ち。(映画にもなってるから流行ってるのかな?)
白城が気になるってずっと思ってたら、最後の一文で期待できそうな感じがあった。
『たのしいことに水と気づく』は(比較的)意地悪で、小説についての言葉に溢れていた。(というか全体的に自己言及とか社会に繋がる言葉が多くて、それとの葛藤?を読んだ。デビュー作からの著者なりの認識の変化があったかもしれない。小説への?社会への?読まれることへの?)
『バスタオルの映像』には、とくにコミュニケーションの交通(の不可能性?)のことを思った。(SFみたいに?)めちゃくちゃ交通してしまうと辛いことばっかりなんだけど、どうしてもそれを欲望しちゃう。
演者と観者(一人ひとりの)の認識のズレとか、ウケる場に身を任せて言った発言のネタとそれ以外の部分とか、本音と建前的なこと。書き手と読み手にも交換可能な記述が多く面白い(って何?)
「梅干しでチャーハンを作りたい」的な漫才を見て好きになったコンビが、だんだん「女のことも男と同じように殴るからおれはフェミニストですよ」的なネタをやるようになる、あの悲しさってマジだけどもっと書けるんだろうなって思う。(『おもろい以外〜』はきっとそういうのも含んだお話だよね…?)
劇場でも危うい発言のボケ(もしくはツッコミ)が、ネタがネタだとわかりやすく、かつツッコミで否定しないとボケとして成立させるの難しいんじゃないかと思う。お客さんも「これ、思いきり笑っていいやつ?」って予断してしまって、それがノイズでウケないみたいな現象が実際あるんじゃないか。その塩梅(お客んさが内面化しちゃってる社会)を上手く認識するか、ギミックとかニンでクリアするかしないと、ダメなのかな。こんな時代だらこそユーモアが必須で、それも熟慮の上というか技術とか場(関係性)作りからしていかないと、誰にも何にも伝わんないし、伝わんないのはやっぱり寂しい。
『だいじょうぶのあいさつ』は序盤の今村夏子的な不穏さがあるな、と思ったら、(タイトルから明らかにわかるけど)優しい大前粟生だった。とはいえ、敢えての定型的に書かれてる父が気になる。(でもこれは大前粟生だから?)
この作品集を読む上で、絶対大事なワードが「幽霊」(おばけ)だけど、最近の作品とか他にも、見た感じ幽霊的なニュアンスがあるので期待して読んで生きたいと思う。自他をないものに(する/される)を変奏していくのかなー。



