柿内正午 "奔放な生、うつくしい実験" 2025年12月17日

柿内正午
柿内正午
@kakisiesta
2025年12月17日
奔放な生、うつくしい実験
奔放な生、うつくしい実験
サイディヤ・ハートマン,
ハーン小路恭子,
榎本空
『奔放な生、うつくしい実験』を読み終える。前半はじりじりと這うように読んでいったが、リズムが浸透してからは一気に読まれた。最高の本だった。今年の、とかではなくこの生にとって大事な本になるだろう。気ままに無為であること、それこそが掴み取るべき奢侈である。とるに足らない存在、いてはいけない存在として、警察や裁判所や矯正施設の調書や文書のなかに、ありふれた不穏分子として記された者たちの生の断片。不良のwayward、わがままなwayward、強情なwayward、厄介なwayward、不都合なwayward女たち。彼女たちを抑圧することを目的として、外から形容するこの語彙waywardを、奔放な、と読み替える。 “奔放であるとは、あらゆる道が閉ざされたときの、それをぶっ潰すよりほか道がなくなってしまったときの、可能性の実践。それはいかなる規則にも従わず、いかなる権威にも首を垂れない。それは強情気ままである。それは別の世界についての神秘的なヴィジョンをさまよい歩き、別の種類の生を夢見る。奔放であるとは、ありうるかもしれないことを今もなお、追い求めること。いかにしてこの社会に存在するのか、その条件がすでに定められているとき、息をつけるような空間がほとんどないとき、生にわたる苦役を宣告されたとき、どこにむかおうともそこに立ちはだかるのが束縛の家であったとき、奔放であることは生のありようを即興的に追い求める。それは、生きのびることをただの一度も期待されなかったものたちがたゆみなく生きようとする、その実践である。” サイディア・ハートマン『奔放な生、うつくしい実験』榎本空訳、ハーン小路恭子翻訳協力(勁草書房) p.258 このようにして、台無しにされた生の可能性を、そこにあったはずの固有の生の迸りを、ハートマンは物語り直す。この本は、批評とは想像力のことであると体現している。この本を賛するにふさわしい言葉は、とっさには出てこない。何を言っても社会学者や調査員めいた、奔放さを損ねるようなことしか書けないだろう。だったら黙って、これからの生で体現していくほかない。 (昨日の日記 https://akamimi.shop/archives/5223)
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