DN/HP "ゼアゼア" 2025年12月17日

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2025年12月17日
ゼアゼア
ゼアゼア
トミー・オレンジ,
加藤有佳織
オークランドで生まれた、暮らす、「都市インディア」たちのLife。街の群像劇。 「都市インディアン」の“物語”を集めるドキュメンタリ作家、少年時代のタグネームは“Lens”。1970年、少女時代に「インディアン」によるアルカトラズ島占拠を体験した50代の姉妹、その孫たち。白人の母親と暮らすバイレイシャルの青年はひきこもりで便秘がち。服役中に読書の魅力に目覚めたヴェトナム・ヴェテランはオスカー・セタ・アコスタを読む。ドラック絡みの銃撃と飲酒運転の事故で家族を喪ったドラッグ・ディーラーは3Dプリンタで出力した真っ白な銃で強盗を企てる…… 彼女、彼らのLifeは歴史と血縁、コミニティ、それにオークランドの街で繋がり重なり混じり合いながら「都市インディア」のLifeとして、オークランドで初めての巨大なダンス、「ビッグ・パウワウ」へと巧みに静かに集約されていく、いってしまう。 「その手の静けさは、頭のなかで騒がしくなり、もっとずっと、くっきりした音を立てる。」ビッグ・ドラムと「逸れた銃弾」の音。 語られてこなかった過去から今も続く大虐殺の、根絶政策の物語を改めて語りはじめるプロローグ。その後、はじめに語られるのは「13歳のときからハッパを売ってる」胎児性アルコール症候群(ドローム)の青年のLife。「穴開き(ホール)の靴下よりソウルを」、彼がホームである「オークランドをチャリで周りながら」バスで拾ったiPodで聴くMFドゥーム、MadvillainのRhinestone Cowboyのリリック、その翻訳。彼がその曲、リリックを聴いた瞬間に「好きだって直感した。しびれた。」ように、わたしもこのセンテンスを読んだときこの小説が、文章が、翻訳が好きだって直感した。しびれた。これも彼がそうだったように「救いだった」気すらしていたかもしれない。 ああ、そうか彼女彼らもわたしが触れて好きになるようなカルチャーに触れ、しびれ、救われ、それは小説にも書かれるのだ、と当然のことを遅ればせながら気がついた。初めて読んだときは物語を追いながらも、そんな部分にフォーカスしながら読み進めた、進めてしまっていた。その後に語られていく彼女彼らのLifeを思いながらも、その中に印象的に登場し、彼らを救うこともあるカルチャー、音楽、映画、本、ゲーム(はあまりよくわからないのだけれど)にただあがったりしていた。 チャンス・ザ・ラッパー、エミネム、アール・スウェットシャツ、レディオヘッドのあの曲はタイトルの元ネタのひとつだ。「π」と「レクイエム・フォー・ドリーム」、「ブラックスワン」のダーレン・アロノフスキー監督。スティーヴン・キングとエルモア・レナード、ケン・キージー。NBAとNFLのビデオゲーム、マッデンNFLはこの前読んだペレケーノスの小説でもプレイされていた。それにスポーツもだった、アスレチックスとレイダース。ラストはショッキングだったけれど、それでも読書自体は楽しい気持ちのまま終わっていた。付箋も沢山立っていた。 初読から数年後、今回読み直したのは付箋を立てたのとは別の本だった。少し新鮮な気持ちで改めて読み進めていく。序盤で再会したMFドゥームの件、そのセンテンス、翻訳はやはり素晴らしい、のだけれど“ドローム”の彼の語り口には以前より色濃く影が差しているような気がした。文章自体にも扱われているカルチャーにも変わらずにあがるのだけれど、それで描かれる物語、彼のLifeと苦悩、その後ろにある残酷な歴史とそこから生じる問題にまで意図せず少しだけ近づいていた気がした。そこには安易にあがってだけはいられない影、とても深い暗さがあった。 それは、これが何度目かの再読で彼らの歴史や物語、ラストシーンまで”知って“いるからでもあるとは思うのだけれど、それよりも今のわたしが、問題や思い悩みを抱えている、とたしかに自覚しているからかもしれない。そんな気もしてきていた。 日本で「日本人」として暮らしてきたわたしのLifeとアメリカ、オークランドで都市インディアンと自覚しながら暮らす彼とでは境遇も立ち塞がる問題の質やその出所も大きく違うような気もするけれど、同じように「人生は全力で襲いかかってくるものだと身にしみているから。背後から忍び寄り、わたしをあとかたもなく粉々にしてしまう」ことだったり「現実は俺らに人生に何の思いやりもなくいろんなことをぶち込んでくるから、手に負えないんだって、」気づいて実感してしまった今では、彼女彼らが「解決」しようと、あるいは逃げ切ろうともがく姿に自分を重ねていた。少し動揺した。そこにあるLifeの思い悩みや苦しみが“分かる”とも思えてしまっていた。いや、むしろ、わたしのそれらを彼女彼らに、この物語には分かって貰える、というようなことまで思っていた。普段小説を読むときには感情移入はあまりしないというか重要ではないと思っているのだけれど、これも多分別の何かだ。ただの弱音かもしれない。 今回はカルチャーにフォーカスするよりも、そんなことを思い考えながら読んでいた。付箋の立つラインも少し変わっていた。それでも文章自体は変わらずに素晴らしかったし読む喜びも感じていたけれど、あがるよりも落ちていたかもしれない。物語に翻ってみても彼らの置かれた境遇は残酷だ。ラストシーンにも救いがないかもしれない。それでも、その既知のラストシーンに向かうLifeを生きる彼女彼らの姿はとても力強く美しいとも感じながら読んでいた。Lifeは「あんたに分かるようにはできちゃいない。完全には分かんないんだ。そうやって物事はなるようになるんだよ。あたしらには分からない。だからあたしらは進み続ける」。ああ、そうか、わたしも「分かんない」から進み続けるしかないのか、と少しだけ前向きに思えていた。 ”ドローム“の彼が拾ったiPodでオークランドを走り回りながらMFドゥームを聴くように、わたしはブックオフで買い直したこの小説を東京から少し離れた公園のベンチで読んでいたのかもしれない。そして彼がMFドゥームのリリックを聴き「救いだった」と思うのと同じように、わたしにとってはトミー・オレンジの書く物語を、加藤有佳織さんの訳した文章を読むことが救いだった、とはっきりと思えた気がした。わたしも彼女彼らと同じようにカルチャーに救われている。そんなことを思い、ため息をつき、立ち上がるために膝に置いた手に力を込める。そんな読書だった。今、もう一度読めてよかった。
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