綾鷹 "遠い山なみの光〔新版〕" 2025年12月17日

綾鷹
@ayataka
2025年12月17日
遠い山なみの光〔新版〕
遠い山なみの光〔新版〕
カズオ・イシグロ,
小野寺健
長女・景子を自殺で亡くしたイギリス在住の日本人女性・悦子が、次女・ニキの訪問をきっかけに、戦後長崎での若き日の記憶(友人・佐知子とその娘・万里子との交流、元夫・次郎と元夫の父・緒方とのやり取り)を回想する物語 解説が充実していて、そこも面白かった。 三宅さんの解説の"イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題"という解説が分かりやすかった。 確かに自分も過去について色々な後悔があるけど、周りに本音は言わず、あの時はしょうがなかったんだと心の中で言い訳してみたり、逆に無理に前向きに考えようとしたり...そんな自分が嫌になることもあったけど、人間って普遍的にそういうものなのかと思ったら気が楽になった。 悦子とニキ、悦子と佐知子の絶妙に噛み合ってないやり取りが、最近の私と母とやり取りに似ていて苦笑してしまった。話を聞いているようで聞いていない。否定はしないけど、納得していない。笑 ・「でも、わたしはよかったと思ってるのよ。わたしはほんとに・・・・・・」「万里子はアメリカへ行っても大丈夫なのに、どうしてそれを言じてくれないの。子供を育てるには向こうのほうがいいわ。向こうのほうがずっといろいろなチャンスもあるわ。 女にとっては、アメリカの生活のほうがずっといいのよ」「わたしはほんとに、あなたのこと喜んでいるのよ。わたしのほうだって、今の暮らしは申し分ないわ。二郎の仕事も順調だし、こんどはちょうど欲しいと思ったときに子供が生まれることになったし…・・」 「万里子は勤めることだってできるわ。映画女優にだってなれるかもしれないわ。アメリカっていうのはそういうとこなのよ、何だってできる国なの。ーー」 ・ニキは肩をすくめた。わたしはしばらく彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でもね、ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せにはなれないと思っていたの。それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」娘はちょっと考えている様子だった。「バカなこと言わないでよ」ニキはわたしのほうを向いた。「そこまでわかったはず、ないじゃない。しかも、お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんかいないわよ」わたしは黙っていた。化粧をしていないと、ニキの顔はひどく幼かった。 「とにかく、時には賭けなくちゃならない場合があるわ。お母さまのしたことは正しかったのよ。ただ漫然と生きているわけにはいかないもの」わたしは手にしていたカップを置くと、ニキの背後の庭にじっと見入った。雨の気配はなく、空はこの数日よりも明るい感じだった。 「お母さまがそのころの生活で満足して、そのままじっとしていたとしたら、バカよ。すくなくとも、努力はしたじゃないの」 ・「まだ、結婚する予定はないんでしょうね」「結婚なんかして、何になるの」「ただ訊いてみただけよ」 「どうして結婚しなきゃならないの?どういう意味があるの?」「ただロンドンで1暮らしていくだけ?」 「そうね、なぜ結婚しなくちゃならないの。バカげてるわよ、お母さま」ニキはカレンダーを丸めてスーツケースにしまった。「女はもっと目をさまさなきゃだめよ。みんな、人生はただ結婚してうじゃうじゃ子供を産むものだと思ってるけど」 わたしは彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でも、結局、ほかにたいしたことがあるわけじゃないでしょ」 「まあ、お母さま。やれることなら、いくらでもあるわよ。亭主とうるさいチビをうじゃうじゃ抱えてどっかへ押しこめられるのなんか、まっぴらだわ。でも、どうして急にそんな話を持ち出したの?」スーツケースの蓋が、どうしても閉まらない。ニキはいらいらしながらそれを押さえていた。 「ただ、これからどうするつもりかと思っただけよ」わたしは笑った。「怒ることはないじゃない。もちろん、あなたはあなたの考えるように生きればいいわ」娘はもう一度蓋を開けて、中をすこし整理した。 「ねえ、ニキ、怒ることはないでしょう」 こんどは何とか蓋も閉まった。「なんで、こんなにたくさん持ってきちゃったんだろう」ニキは一人でつぶやいた。 ◾️解説 ・カズオ・イシグロの世界の本質は、第五作『わたしたちが孤児だったころ』(二〇〇〇)に到ってようやくはっきりしてきたように見える。一言でいえば、一見リアリズムの小説と思える第二作『浮世の画家』や、その前後のいくつかの短備もふくめ、けっきょく根底にあるのは世界を不条理と見る見方だということである。つまり、哲学的な意味での世界における自分の位置が見えない状況、言い換えれば自分と世の中の関係が分からない、したがって、たとえば過去についても未来についてもどう考えればいいか分からないといったことであり、理想などとは無縁のまま薄間のなかで手探りでうごいている、そんな人間の状況を描いているのである。それなら、カフカ的という形容はだれでも思いつくだろう。だが、イシグロの世界は単にカフカ的なだけではない。 彼は、価値のパラダイムが変わったとき戦争に負けたときなどが典型的な例であるーに訪れる過渡期の混乱のなかでも、不条理という見方だけで割り切らず、たとえかすかなものでも希望を棄てない生き方を描くことが多い。その人生をつつんでいる光は、強く明るい希望の光でも、逆に真っ暗な絶望の光でもなく、両者の中間の「薄明」とでもいうべきものである。イシグロの世界はこういう、どちらかというと暗さの勝っている「薄明の世界」であり、この感覚が現代人の好みというか実感にはよく合うのだと思う。 ・この三作の共通のテーマは、価値の転換期に遭遇した人物が、心の中で自分の過去をどう清算すればよいかに悩むというものだったのである。さいしょの二作はどちらも舞台は日本だが、『遠い山なみの光』については後でまたふれるとして『浮世の画家』のテーマはその典型であり、第二次大戦中は軍に協力して大家の地位にあったのに敗戦とともに没落した老画家の苦悩を描いている。次の『日の名残り』も、舞台こそこんどは英国でも、戦時中に誠意と友情からナチに協力したのが裏目に出て戦後には売国奴と罵られ、失意のうちに死んでいく貴族に仕えた、老執事の物語である。彼は老年のいま、徹底的にわが身を殺し、恋愛もあきらめて主人の大義に殉じた自分の人生の意味について思い惑う。つまりこれも価値の転換期の身の処し方がテーマなのだ。イシグロはケント大学を出たあとで一時働いた国外からの難民の収容施設で、そういう悩みをかかえた大勢の人々に出会い、この問題について深刻に思いをひそめた経験を活かしたと言っている。 『遠い山なみの光』のばあいは、語り手でヒロインでもある悦子の生涯は、もっと大きな時代環境の変化を背景に、長女景子の自殺という犠牲も払ったのち、英国人の夫との娘ニキによってほぼ完成する女性の自立というテーマが、全体をつらぬく一本の強い線となって作品をまとめているが、緒方さんと佐知子母娘という価値観の変化による典型的な犠牲者のテーマもふくんでいて、その点ではつぎの二作のテーマにもつながっている。 ・弁証法という哲学用語の語源は対話術ということだ。Aなる考えとBなる考えがぶつかって、その違いを検証する対話の内からどちらをも超えたCという考えが生まれる。すなわち思想の生成の過程である。 しかし、われわれの日常的な会話の大半はそれほど生成的ではない。双方の思いの違いが明らかになるばかりで、いかなるCにも到着できないのが普通の会話というものだ。それがまた哲学と文学の違いでもある。両者がボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向かうのが文学である。 ・作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。J・G・バラードはエゴセントリックで脇人物にはそれ以上の待遇を与えないし、セイディー・スミスは全体プランに合わせて工学的に細部を作ってゆく。会話はパーツの一つであり、それを加工する手の動きが読者にも見える(ぼく自身もこれに近い)。 カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。 ・カズオ・イシグロは文学が普遍的な人間の心の動きを扱うものであることをじてこれを書いた。作品の出来がそれを証明した。Sachikoの心はイギリス女やヴェトナム女と変わらない。それが文学の、今の時代の世界文学の意味である。佐知子と悦子は世界中にいる。 ・遠い記憶の物語である。 罪悪感と後悔に満ちた風景が、暗く苦しいものだとは限らない。むしろ、罪悪感と後悔に満ちているからこそ、記憶のなかの港の上の山なみは、美しく幸福なものだったのかもしれない。 カズオ・イシグロが故郷を描くとき、そこにあるのはいつも、後悔と喪失の記憶である。 美しい故郷とは、それが美しければ美しいほど、美しさを見出したいくらい後悔した記憶を抱えている。そういうことについて、書いた小説である。 ・イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題である。 ・もう二度と戻れない、取り返しのつかないことは、この世にたくさんある。どうしたって指の隙間をすり抜け、こぼれ落ちてしまうものは存在する。 悦子にとって、景子との関係も、原爆で失ったものも、緒方との思い出も、二郎やイギリス人の夫との結婚生活も、取り返しのつくものでは決してない。 誰の人生においても、取り返しのつかないことをしてしまったのだと、理解し後悔し失に叩く瞬間は存在する。 自分は間違ったのだ、その結果、自分は大切なものを決定的に失ってしまったのだ、と私たちは時にそこでしゃがみ込んでしまう。 しかしー後悔と喪失は決して時を止めてくれない。川岸のぬかるみのように、足に絡まった縄のように、何かに足をとられても、それでも歩みを止めず生き続けるしかない。 どんなに罪悪感を持っても、起こったことは決して止められない。「何事もなかったみたいに」、人は後悔を隠して生きるほかないのである。そのことをイシグロは何度も小説に刻む。だから私は彼の小説を頼している。 悦子に対して娘を殺した母だとか、緒方に対して時代遅れの男性だとか、糾弾することは簡単だ。しかし彼らは彼らで後悔を隠して生きている。そこに痛みがないわけではないことを、イシグロはたしかに描きだす。 後悔を秘密にして生きる悦子が思い出す、港の上の山の風景はーその痛みが強ければ強いほど、おそらく美しい。「あの時は景子も幸せだったのよ」と嘘を述べつつ微笑んでニキを送り出す悦子の姿は、決して特別ではない私たちの普遍的な輪郭を浮かび上がらせている。
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