
ジクロロ
@jirowcrew
2025年12月17日
明石海人歌集
明石海人,
村井紀
読んでる
籟は天刑である。
加はる笞しもとの一つ一つに、嗚咽し働突しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。ーー深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーーさう感じ得たのは病がすでに膏盲に入ってからであつた。齢三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもつて感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流睇し時には手偏卞舞べんぷしながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
籟はまた天啓でもあった。
(『白猫』序文)
「籟は天刑である。」
これは一般論として理解される。
「籟はまた天啓でもあった。」
これは受難を経た著者の経験談として、
過去形で記される。
そして冒頭の一文以外、
すべては過去形で語られている。
その人に与えられた苦悩から得られた
その人だけの大いなる「発見」は、
力強い過去形をもって語られる。
一方で、一般論は常に現在形で語られる。
著者の発見を前にして、籟に関する一般論は、
いわゆる言葉だけの命題は、
すべて貧弱な知識にすぎない。
「私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。ーー深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はないーーさう感じ得たのは病がすでに膏盲に入ってからであつた。」
心から励まされた一文。
「ぼくが目になる」
ふと、スイミーの名言が思い出された。
著者の名が、「海人」であることもまた、
この一文に重みを持たせているような気がする。
著者の短歌は全体を通して暗いものばかりり
でもその中には、僅かながら「一縷の光」のような作品も混じる。
だからこそ、その光がより神々しく感じられるのかもしれない。
暗闇の中、著者の目が光となり、
その光がまた、光を呼ぶ。
日常生活で常人が見落としている輝きを、自らの光とし、自らの暗闇を切り拓いてゆく。
そんな印象を受ける短歌が、随所に散りばめられている。
