
ジクロロ
@jirowcrew
2025年12月20日
イデオロギーの崇高な対象
スラヴォイ・ジジェク,
鈴木晶
読んでる
「モナドの中では、現在の配置が直接に過去の配置に満たされている限り、言い換えればそれが純粋な反復である限り、「時間は止まる」。反復は「時間の外に置かれている」。
……
したがってモナドとは不連続・断絶の瞬間であり、その瞬間に線的な「時間の流れ」は停止され、「凝固」する。なぜならモナドの中には、一般的な歴史によって確立された連続から押し出され、抑圧された過去が直接的にーすなわち連続的時間の線的な継起を迂回して一反響しているのである。」
p.266
「モナドのたまゆら」
読んでいてふと、そんな言葉が出てくる。
美しい響きとは、「抑圧された過去」の連続と
その接触により奏でられる「今・ここ」の音楽。
たまゆらに昨日の夕見しものを
今日の朝に恋ふべきものか
(柿本人麻呂)
「曲玉の二つ三つ糸に通して静かにゆると
玉が触れ合ってかすかな音がする。
この音を治子は“たまゆら”と言っていた。
——私は曲玉の古代の人を思ってみた。
古代の人がなにかと身を動かすにつれて
曲玉の“たまゆら”が聞こえたのだろうか。
——私は古代の人の愛の時の“たまゆら”を
思ってみたのであった。」
(『たまゆら』川端康成)
川端康成の小説には、「モナドのたまゆら」
——彼の「抑圧された過去」たちの触れ合い
による、かなしくも美しいかすかな響き——
がその通奏低音として含まれている、
そんな気がする。
心に響いてくる小説とは、
人麻呂の歌うところの
「今日の朝(けふのあした)」
とも言えるのでは、そんなことを思う。
