綾鷹 "YABUNONAKA-ヤブノ..." 2025年12月25日

綾鷹
@ayataka
2025年12月25日
YABUNONAKA-ヤブノナカー
・しかし結局のところ、文学性というのは己に通底するテーマを深掘りし続けるそのスタンスに表れるのではないだろうか。自分の企画する特集の凡庸さ、有名どころの文芸誌の創刊時からのパックナンバーを漁り様々な特集テーマをストックし、その焼き直しや改変でお茶を濁し続けてばかりの自分の浅はかで空っぽな手法に疑問を持った時、そう思い至った。逆に、自分の好きな作家たちの多くは、手を替え品を替え様々な小説を書いていると思わせながら、実際には生涯をかけて同じテーマを書き続けている。そう気づいたとも言える。彼らは対社会、対体制、対外部的な小説を書いていると思わせつつ、実際にはずっと個人的な問題と向き合い続けているのだ。個人的な問題とは、フェティシズムや変態性欲、コンプレックス、偏執、タブーや死への衝動など理性や理論では語り得ないものであることが常で、だからこそ彼らはそれらと生涯をかけて向き合い続けられたのかもしれない。 ・でも軽い鬱痛くらいが、この世を生きる最もバランスの良い状態なのかもしれないとも思う。 家族も友達も趣味もない。何ものにも執着しない、執着されない、愛さない、愛されない。金を線き各所に配付し経済を回し、とこも汚さず誰の邪魔にもならず、食って排泄して寝る。ジャンダルに暮らす動物たちのようにシンプルだ。 ・しかし私の中には、善悪の判断をし、悪を徹底的に潰さなければならない、間違っているものを排除し世を正さなければならないという、それはもう悪のような正義感が渦巻いているのだ。つまり私の言う多様性とは、私が認められる多様の中でのみ機能する多様性のことであり、そこから外れる女性を殺した者であったり女性を搾取する者であったり子供を殺したり搾取する者であったりはどんなに残酷な刑にかけられ殺されても構わないむしろそうしてもらわないと気が済まないという反社会的な怒りがあるのだ。もちろんそこまで極端な例に限らないが、一度激昂すると相手の死さえ厭わない悪のような正義感に一哉は引いているのだろうし、主義的には死刑反対と言いながら、個人的な怒りには打ち勝てない自分自身のダブスタ具合に、私も引いている。 ・自分がこんな四十代になるとは思っていなかった。こんな不安なまま、こんな歳になるとは思っていなかった。今四十三になって、二十三、いや十三の自分にだって同じことを言える。お前はあと二十年生きても三十年生きても今のお前と大して変わらないぞ。二十年、三十年、自分がいいものを書いているのか確信が持てないまま縋るように小説を書き続け、二十年、三十年、恋愛で幸せになったり不幸になったりするが決して不安は消えない。もちろん生きてて良かったと思うこともある。あの時死ななくて良かったと思うこともある。でもお前の人生はどこを切っても金太郎飴のようなものだ。金太郎の顔がぐにゃっとしていたり、精悍だったり、潰れていたりしても、内容を構成する要素は同じだ。いつか変わるのだろうか。いつか、例えば老いが無視できないところにまで忍び寄り、そこにいつしか引き込まれていく途中、あるいは孫ができて自分の子供ができた時とは違った心持ちで赤子を抱いた時、親が亡くなった時、自分自身が病魔に侵された時などに、私の中にこれまでの金太郎飴にはなかった重要な要素が入り込むことはあり得るのだろうか。人生には様々なフェーズがあると聞く。いつまでも自分が今の自分のままなはずはない。でも、自分がこの三十年以上にわたってあまりにも変わらないことに、私は驚愕し続け、ようやく絶望しかけているのだ。 ・同じことを感じている女性は、今すごく多いと思います。 自分の中ではこういうもの、と納得して適宜引き出しにしまっていた記憶が、昨今の告発の数々の中で突如暴れ出して、引き出しから飛び出して自分を襲う。そしてそこに入れてしまった自分自身への不信感、かつての無自覚な時代への憎悪、相手側にはそんな葛藤は一切なく、いい思い出フォルダにまとめられているんだろうという耐えがたい予測、この古傷が耐え難いほど痛み出す現象については、それなりに年齢を重ねた女性たちとの間で最近よく話題になります ・「分かります。最近のあらゆる告発文は、私たちの中に眠っていた過去の罪を照らし出してくれますよね。打ち上げ花火が上がって、同じ痛みを持っている人たちが照らされた自分の古傷を見出す。あれは断罪されるべき罪なんだと気づかされていく。それは社会が急に変化していく中で必然的な流れだし、それぞれ個人が変化し続けているからこその気づきでもあります。当時は大して気にしていなかったことが、どんどん大きな罪になっていく。時代の変化によって、そしてその変化に呼応した自分自身の変化によって。つまり、私たちはとても流動的で、まるでアメーバのような存在に身を任せながら、自分達自身もまたアメーバのように手からこぼれ落ちてしまうような存在だということです。そんな不確かな存在として不確かな世界に生き続ける苦しみって、今この変化に気づいている人たちだけが抱えているもので、気づいている人と気づいていない人の間に鮮やかなグラデーションができていることに最近気づいたんです」 ・禿げかけて顎下にたっぷり脂肪をつけたおっさんが、三歳児のようなわがままっぷりを披露する。レイプしておいて、話さない。根こそぎ尊厳を奪っておいて、敵意を恐れる。ほら見ろ過去と今が瞬時に、直接的にドッキングした。生涯に亘って許せないことというのは、昨日のことなのだ。いや、今も継続しているのだ。私はこの十年近く、毎時毎分毎秒ずっとレイプされ続けている。尊厳を奪われ続け、犯され続け、自我を殺され続けている。だから私は、いい加減にその被虐から逃れなければならない。戦い、勝たなければならない。これは尊厳を取り戻すための戦いなのだ。グラスを持ってリビングを出ていこうとする克己に「話し合いに応じないなら弁護士に相談します」と声を掛けるが、目すら合わさず彼はドアを閉じた。 ・正直、自分は個人主義の立場をとっていて、基本的には全てのお金を折半したいし、自分が興味ないことやりたくないこと、例えばバーベキューだったり遊園地だったりナイトプールだったりにお金を払いたくはない。行くことになればお金は出すが、本当は全く割りきれない思いでいる。正直にこの愚痴を言ったら、担当作家の長岡さんに「五松さんが付き合えば付き合うほど不幸な女性が増えるだけだから、恋愛やめたほうがいいと思いますよ。まあ五松さんには女を不幸にさせる程の魅力もないから大丈夫かもですけど」と笑われた。あまりにサラッと軽い口調で言われ、周囲がドッとウケていたから苦笑いで流したけど、時間が経てば経つほど思い出した時の怒りが増していく。男だったら分かってくれるだろうと、担当作家の七樹さんに同じことを言ったら、「五松くんは誰かにお金や愛情を分け与えられるほど満たされてないんだろうね。まあ、どれだけ満たされてても与える器がない奴もいるけどね」と同情された。確かにそうなのかもしれなかった。自分は昔から、自分のものは自分のもの。で、お菓子もおもちゃも分け与えることができなかった。僕の!僕の1というのが口癖だったと、親に今も笑われる。お母さんお父さん、僕はいまだに僕のお金を女性に使うことにモヤモヤしてしまいます。それでもこすい奴と思われるのは嫌だから、いつもお金を払っています。課金もしています。でもどこかで「払ってやってる」という意識が働いてしまい、彼女達が自分に優しさや体で接待するのが当然だという思いを捨てきれません。自分が現代に於けるマッチョ的害悪であるという自覚はしています。でも自覚以上の境地にはまだ立てていません。 ・でも、自分の中にはそんな暴力的な血は流れていない、とも言い切れないことを、最近よく痛感する。もちろん今だって口説き倒してセックスをしようとも思わないし、風俗も好んで行きはしない。歳のせいもあるかもしれないが、もはやセックスに持ち込むためのエネルギーをケチるような男だ。それでも自分は女性をルッキズム全開でランクづけし、金を払えば払っただけの見返りが欲しくなり、後腐れなくセックスできるならばより多くの見た目のいい女性たちいい体をした女性たちとセックスしたいと望む、下世話で暴力的な存在だ。自分のことをそんなふうに捉えるようになったのはきっと、女性を射精のための道具としか思っていないあの作家のような老害に対する嫌悪と、今の彼女が初めての彼女です、と歓迎会で自信満々に言って部署の女性たちの好感度をかっさらっていったという、新卒で文芸編集部に配属された二年目の梨山くんみたいな若者に対する不可解さの、両方があってこそのことなのだろうと最近気づいた。 ・皮肉屋で、気に入らないやつを目一杯一刀両断するから、頭がキレてウィットに富んでいると評価されていた時期もあったようだが、四十代半ばに差し掛かった今はただの愚痴おばさんだ。近所のスーパーが値上げをしたことや、旦那の家事のやり方への不満までダダ漏れにしてきてちょっと引く。木戸さんによると、昔はああいう女性編集者が多かったとのことだ。過去のノリを引きずっちゃってるんだろうねと不憫そうに言っていたが、それはあんたも同じなんじゃないかとも思う。こんなところにも、時代の変化は見え隠れするのだ。いや、この人の移り変わりこそがまさに、時代の移り変わりと言えるのかもしれない。 ・「私は本を通じていろいろな人と対話をしてきました。例えばカラマーゾフを読めば、ドミートリイ、イヴァン、アリョーシャ、スメルジャコフ、フョードル、そしてカチェリーナとも対話をします。もちろん著者自身とも、小説そのものとも対話をします。これは人間関係と同じようなものでありながら、現実の人間とのそれよりずっと濃密な関係でもあります。現実に顔を突き合わせる人たちと、人はどのように生きるべきか、罪とはなんなのか、貧困とどう向き合うべきか、なんて真面目に語り合うシーンはあまりありませんよね。だからこそ、考えざるを得ないシチュエーションと、多様な意見が取り入れられている小説には大きな存在意義があると私は思っています。もちろんそれとは全く違う意義も小説には含まれているのですが、意義の一つが、このように現実よりも深い思考や対話を持てることだと思っています。この、本を通じてあらゆるものと対話する、という関係は、言い換えてみればいわばリモートの一種ですよね」 ・人間は、本や映像という媒体がなかった頃から伝聞や歌で何かを継承する、受け取る、といういわばリモートのコミュニケーションを経てきました。今では本や映像、画像や絵画を通して、時代や国境、文化や宗教を超えて、遠くの顔を見たこともない誰かから、すでに死んでしまった誰かから、大切なものを受け取るということを日常的にしています。そう考えると、受け取る場所が書籍であろうが、データであろうが特に大きく変化する所以はないのではないか、と私は考えています。つまり、小説に関して言えば、そこでやりとりされているのはエスプリや心、思考、価値観です。それは目には見えないもの、感じることしかできないもので、そういったものが文学、書籍というものを通じて人に届くようになったけれども、今はデータでも届く。手で触れない、目には見えないものに少しずつ近づいていっている、つまり元来の形に戻りつつあるとも言えます。 ・数年前、自分の担当作家が、時折無邪気さを丸出しにする人と、一切無邪気さを見せない人に二分されていることに気づき、どうしてこんなに明らかに二分されているんだろうと考えた結果、ずっと専菜作家で一度も社会に出たことのない人に共通しているのがこの無邪気さだと気づいたのだ。長岡さんは若くしてデビュー、就職経験のない作家だ。数は少ないけれど、こうした社会に出たことのない人や、フリーターのような自由な働き方や、フリーの仕事をしていた人は、「社会人なら必ず削られてしまう場所」が百%の状態で残っていて、時々子供と向き合っているような違和感に駆られ、戸惑うことがある。「社会人なら必ず削られてしまう場所」が割れている作家の方が共感能力が高いし、社会に対して開けているため読みやすいという傾向もある。どちらがいいというわけではないものの、なんとなくこの削れていない作家に対しては嘲りと羨望が入り混じった苛立ちが湧き上がるのだ。 ・あんたが外部に削られず生き延びることができたのは、儲に作家としてやっていけてるからであって、そんな才能もなく世間に揉まれて苦しむ奴らへの想像力がないからそんなことを平然と口にできるんだ、と唐突な憤怒に駆られる。最初はお望みの部署にはいけません、泥臭い編集部でも大丈夫ですか?と週刊誌行きを示唆され、断腸の思いで「もちろんです」と答えた自分の味わった苦渋も、編集長のモラハラや取材対象からの罵倒、過酷なスケジュールに苦しみ続けた週刊誌時代の胃痛も、時代の変化によって泥臭い部署を経ず新卒で希望通り文芸の編集部に配属された梨山くんのような奴への滾るようなルサンチマンも、お前には分からないだろう。だからあんたはずっと地に足のつかない、リアリティのない小説ばっかり書いてて、だから売れないんだ。呪いの言葉を頭に思い浮かべながら「やめてくださいよ。僕はまだ編集者の中では若手の範囲ですよ。若い人はどう思うの?とか聞き取られる側ですからね」とヘラヘラ諂って見せる。俺には、こういう長いものに巻かれる自分に対する激しい怒りがある。 ・その時優美の手と脚が胴体に回され、俺は抱きしめられる。優美の手も足も熱く、包まれた心地に、重力とは正反対に胸が軽くなっていく。女性上司に勃起したり、胸に惹かれたり、でも勃たなかったり、抱きしめられて安堵したり、自分の体はどうしょうもないなと思う。俺だって望んで、クズやゴミ予備軍に生まれたわけじゃない。男をクズとかゴミとか言える女はいい身分だ。男が逆のことを言ったら死刑なのに、なんでこんなにひどいことをあんなに軽いトーンで言えるんだろう。憤りが体の中でどすどす荒ぶっていても、安塔はどこまでも体に入り込んで、主に胴を中心に脂肪をつけ始めた俺の体を支配して行った。 ・表現っていうのはどんな場でどんな形でどんな人からなされようと一方的なものだよ。人は自分というフィルターを死ぬまで外せないからね。もちろん Twiterとかの匿名投稿がその最底辺にあるっていうことは分かるし、その痛々しさに耐えられないって意見も分かるけどね。 ・普段あまり本を読まない自分でもさすがに気になって何度か手に取って数ページ読んでみたけど続かなかった。それでもここまで売れて話題になればやっぱりちょっと本腰を入れて読んでみようかなと思うから、自分はオピニオンリーダーから最も遠い人種、資本主義社会と世間に踊らされる大来の一員でしかないのだと自覚せざるを得ない。 だからこそ、友梨奈に惹かれたんだろう。自分の中に確固とした価値観を持ち合わせていない俺には、「それは正しい」「それは間違っている」「それは正しいけどもっとこうするべきだ」「それは救いようのない悪だ」と自信満々に全てにジャッジを下せる彼女が眩しかった。 「私が間違ってると思ったらちゃんと言ってほしい。一哉の言葉を受け取ったら、私はその都度きちんと考えるし、一哉の意思や価値観を取り入れて、私は人としてさらにバージョンアップしたいんだよ」 付き合い始めた頃、いつも私ばかりが提案して私ばかりが全てを決めて私ばかり話題を出して私ばかりが話を先導して私ばかりが結論を出してる、と不満を漏らしたのち友梨奈はそう言った。 情けないかもしれないけど、俺は友梨奈と話しているだけで幸せだし、友梨奈が間違ってると思ったことは一度もないし、一緒にいると幸せだから話す内容はなんでもいいんだと言ったら、彼女はショックを受けたような表情をしたけど、主張がないということが一哉の主張なんだねと前向きに理解したようなセリフで話を終わらせた。何故かは分からない。自分には許せないものがないのだ。苦手なものはある。でも許せないものは特にない。つまり自分にあるのは、信念ではなく、傾向でしかないんだろう。それでも、何が何でも友梨奈と一緒にいたいという仰に近いものが自分にはあるのだから、それで十分じゃないかとも思う。 ・それでも新しい時代の人たちがそんな前時代の負の遺産で傷つくことはあってはならないし、何よりも今の時代の正しさを執行するために、セクハラは取り締まらなければならない。私は変わりゆく時代に抗う必要は感じてないからね。でも最近、あの頃は間違ってた、自分も含めて皆がおかしくなっていた、って昔を振り返って悔恨の念を漏らす女性たちを見ながら、私はそうじゃないと感じてる。あの時は「あれが普通だった」んだよ。常識と言ってもいいかもしれないね。そして今は常識が変わっただけ。そして、今の常識だって、あと数十年すればきっと「間違ってた」と言われるようになる。でも間違ってたわけじゃない。時代によって常識が変化してるだけ。正しさを執行するためにと言ったけど、それは便宜的な言い方であって、本来はそこに正しいも間違いもない。ただただ時代にはそれぞれの正解がある。移り変わる正解の蔵の中で、今の環境における正解を正確に捉えることだけが、今を真っ当に生きる術だよ。現代にだって、あらゆる国や村で略奪婚、一夫多妻制もあれば、赤ん坊をシロアリの巣に入れて精霊として還す民族もいる。そこには先進国とは全く違う結婚制度やジェンダー観があって、何が幸せかなんて環境によって全く違う。自分たちと価値観を共有しない人たちを可哀想と切り捨てるのは邪悪だし、愚かな行為だよ。でも現代に於いてはインターネットがあって、先進国に生きる者たちは移民問題やグローバル化の潮流の中で他者との共存、多様性っていうテーマに直面してる。でもそこで、我々は全くもって画一的な価値観を持っていないという当たり前の問題にぶち当たる。例えば現代の先進国に於いて人々は犬猫を家族のように大切に思ったりするけれど、ゴキブリは容赦無く殺す。でも数十年後には、人間はゴキブリを家族のように大切に思って一緒に暮らしているかもしれないし、百年後には生き物の肉を食べるという行為もまた非人道的と捉えられてるかもしれない。そしてその時には言うんだろうね。「昔の人は野蛮で、人の心を持っていなかったんだろうね」って。 ・二人の生活がこんなにも二人の要素で完成されていて、強固な ものになっているという事実が、こんなにも胸を挟るのは何故だろう。さっき、別れを切り出された七年前のことを思い出してしまったせいかもしれないし、料理がとてもおいしかったせいかもしれない。あるいは、彼女が痩せたと感じたせいだろうか。いや、多分違う。俺は最近、五松さんやとりあえずンコチ、イエニスト茂吉好き、木戸さんと橋山美津といった面々の、恋愛を巡る男女の不幸な末路を目の当たりにし続け、自分でも知らず知らずのうちに心を痛めていたのかもしれない。そんなことを思いながら、柚子胡椒ものすごく合う、やっぱこれが最適解かも、と満面の笑みでチキンを口に運んで、そろそろ柚子胡椒買わなきゃねと瓶を覗き込んで言う彼女に、「柚子胡椒はストックがあるよ。まだあるよって言う俺を無視して、友梨奈が物産展で買ったやつ」と微笑んだ。あー! と無邪気な表情を見せる友梨奈がこれから、旦那さんが美意識的に耐えられないと感じる泥沼の離婚協議や離婚調停に挑むのだと思ったら、それが友梨奈のみならず自分のためにもなされる行為だと知りながら、止めたくなる。 ・「へーすごい。本当にあるんだねバーベキューやろうとか言う会社」 ね、と同意して眉を顰める。思えば、これまでも社内で誰々の家でバーベキューやるとか、誰々さん幹事でバーベキュー大会するとかで誘われたことが何度かあった。あんな準備と片付けが大変なものをなぜやろうと思えるのか、神経を疑う。焼いた肉を食べたいなら焼肉屋やサムギョプサルを出す韓国料理屋、シュラスコなど選択肢はたくさんあって、都内には無数の美味しい店がひしめいているのに、どうして自ら大して美味しくもない肉を焼いたり、気を使いながらどうぞと取り分けたりなどの茶番を繰り広げなければならないんだろう。反射的にそう思う俺は、人生の中で一度もバーベキューをしたことがない。 ・私、あるいはこの場にいる誰かが何らかの病気により子供を作れない体質であるという可能性を全く考えないんですか?誰かが子供が死ぬほど嫌いで永遠に子供を持ちたくないと考えている可能性、あるいはこの場に性的マイノリティの人がいる可能性も考えないんですか?あなたの発言は、全ての人は子供を持つべき、子供は全ての人に求められ愛されるもの、という社会的刷り込みに則っていて、二重にも三重にも愚かで失礼です。課長とはいえ人の上に立つような人がそんなアドバイスを装って想像力の久如した先輩風を吹かせることは、ここにいる全ての人たちにとって害悪でしかないですよ ・いつの時代も、正しさや現代らしさは、病的なものと捉えられるのかもしれない。SDGs、環境保護、動物愛護、LGBTQ+、あらゆる運動の最先端にいる人たちが病的に見えるという意見も分からなくはない。それでも、気づいてしまった人、見えている人は、もう前に進むしかないのだろう。 ・彼女がそうして周囲の人を凍りつかせた場面を、俺は他に何度も目撃してきた。「女なら一度は出産するべき」「あなたたちは顔が綺麗だからたくさん子供を作ったほうがいい」「ゲイには敷居を跨がせない」などなどの発言をした人に対する人格批判だ。彼女の言っていることはまともで、誰よりもまともで、誰も反論の余地はないだろう。でもその無自覚な相手を徹底的に論破しゴミクズに鋭く唾を吐き捨てるかの如き冷酷さは、見る者を不安にさせる。彼女は差別主義者、セクハラパワハラをする人、固定観念に捕われている人々を許さない。俺であっても伽耶ちゃんであっても誰であっても、そのような発言をしたら徹底的に、生まれてきたことを後悔させるほど強烈に叩きのめすだろう。もう脳震盪を起こして伸び切ったゴム人形みたいになった相手をいつまでも左右から殴り続けているかのような、そんなボコボコ感が、俺には耐えられないのだ。 もういいんだ殴らなくていいんだと、彼女を抱きしめたくなる。人がボコボコにされるのは、言葉によってでも、肉体によってでも見ていて辛い。でもきっと彼女は言うだろう。ボコボコにされたのは私の方だ。傷ついているのも私の方だ。あいつらは何一つ傷ついてない。でもそうじゃないと俺は思う。彼らもまた、彼女の思うような形でなくとも、それなりには傷ついているはずなのだ。そしてこれは口にはしないけど、俺もまた彼女が誰かをけちょんけちょんに貶めている時、ガラスの破片を踏みつけたような痛みを感じる。彼女の痛みに共鳴しているのか、それとも彼女にけちょんけちょんにされている人の痛みに共鳴しているのか、それとも二人がぶつかって飛び散ったガラスを踏んでいるだけなのか分からない。それでも誰にも露呈しない痛みではあるけど、俺の痛みもまた本物で、その痛みが彼女にとって取るにたらない痛みであるという事実もまた、俺にとっては小さな苦痛だった。 ・プラスチックコップに延々、ジュースや水を注ぎ続けていると、気が休まる。自分はこういう無機質なものと、専門的な技術を必要としない関わりを持っているのが一番気楽なのだ。今はマーケティングの部署にいてそれは本当に面白いし勉強になるしやりがいがあるしずっと続けていきたいと思うけど、本来の資質的には、延々段ボールに何かをつめて宛名シールを貼って閉じて重ねるといった出荷作業のようなものが合っているという事実はあるにはあって、それは自分が責任というものに過大なストレスを感じてしまうことに起因しているのだろうと自分では考えている。 ・うちの会社には、こういう人が多い。体育会系で与えられた課題を無思考にクリアし続けてきて、就職してからも与えられた課題を気合と根性でクリアし続けている人、自分が偏った人間であること、無知であることを知らない人。
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