Aquaporin
@aquaporinase
2025年12月27日
天人五衰
三島由紀夫
読み終わった
生きること=老い
自我のある認識から、自我のない認識への変化が、見ることの能力の変化に繋がれている。
意志と歴史の観点の話はよくわからなかった。
阿頼耶識のような概念は本多、透、慶子は決定論としてある無秩序として描いていた印象がある。
(細かい部分は暁の寺の部分で本多の読解があるが読み飛ばし気味でよくわからない)
透にとって、神に決定される存在であること(本物)は自尊心を支えるものになるが、つまらないものに決定される存在であること(偽物)は自尊心を壊される。
最後の聡子は、少し違う印象を持つ。
彼女が決定論としての無秩序であるかどうかにかかわらず、端的に捉えようによって変わりますし、というようなところにいる。
本物か偽物かわからない、もしくはわからないことすらわからない、忘れているのか、忘れているのかすらわからない存在として存在する。
本多にとってどのような存在として映ったのかわからない。
本多は、最後の庭をベナレスのように入り乱れた汚濁=神聖でもなく、最後の場面で想像するような、事物の背後に回り込むような見方ではみない。
ただ明るく奇妙なところもなく、さらには、どこにもなく記憶にもないところとして庭を見る。
この見ることは、何に属する見ることなのか私にはわからない。
図式もなく、ただ見ているというように見える。
否定を介して語るほかないような見るであるが、そのような否定を介した見るのような印象を受けない。
進化生物学者が浸るような動態を見るような見るでもない。
水仙体験として、今ここで見ているということを特別視したようなものでもない。
本当は元から世界はこのようであったのだという驚きの元に見るのでもない。
そのような見るは、特別なこともない、生活の見るにあたるといいおくことしかできない。