綾鷹
@ayataka
2025年12月27日
YABUNONAKA-ヤブノナカー
金原ひとみ
・スポーツ経験者だし、と言いそうになったのを止めて、言葉を切った。自分は敢えて無自覚を装っている。向田さんがどう感じているかなんて分からない。ある日突然無断矢勤をして、退職代行を使って一度も顔を見せずに辞めた広報部の女性、適応障害で休職したと聞いてから一向に復帰の報告を聞かない同期、そうでなくとも一緒に健やかに働いていると思っている同僚たちの中にも、ハラスメントで死を意識するほど苦しんでいる人がいるのかもしれない。でもそんなことを考えていたら仕事にならないし、もちろん相談されれば相談先のアドバイスをしたり、信頼できる上長に報告したりなんかはするけど、結局仕事を辞めたり死を考えているような人を自分が救えるはずもないし、やれることをやるしかないじゃないか。友梨奈は、自分は誰でも救えると思っているからこんなことを言うんだ。だから苦しむんだ。そんなこと、できるはずがないのに。
・友梨奈は正しさで追い詰めたんだよ。友梨奈の言うことは正しすぎる。だから伽耶は潰れた。
友梨奈といたら、伽耶は正しいことができなかった自分を責める。正しいことができなかった自分は軽蔑されてると感じる。安寧は得られない。正しさなんてどうでもいいと思ってる俺といる方が、伽耶は楽なんだよ。だから友梨奈がここに来て恩着せがましく料理大量に作ったり掃除したりしても顔も出さない。友梨奈の顔を見たら、正しいことをしろって胸ぐら掴まれてる気分になるからだよ
・もちろん正確なっていうのは便宜的なものでしかないのは分かってる。それぞれに正確な理解がある。自分の正解を押し付けるつもりはない。でも彼女は今戦わなかったら、きっといつか後悔する。悔いて悔いて、自分の中を貫く裂に苦しみながら生きてくことになる。今の伽耶みたいに。そのことも、ちゃんと話して説得しようと思ってる。私のやるべきことは、それで間違ってないよね?と俺に聞いた。何も間違ってないと思うよ。でも、その事件に関わった人たちが、今何を求めてるのか、ちゃんと配慮して汲み取った方がいいだろうとは思う。人によっては、いつかではなくて今の方が大事で、今を捨てることはいつかを捨てることと同じかもしれない。告発しなかった人が愚かなんてことはもちろんなくてい告発した人だけが正解というわけでもなくて、こういうことに関しては答えとか正解なんてものはないと思うから
・自分が謝っても、世界は何も変わらない。自分たちはハラスメントに関与していない、全くもってそんなことをしたいと思ったこともなければ、加担したこともない。でも、それでも、目の前でこうして彼女が傷ついたり、向田さんがセクハラの刃を向けられたりするシーンを目の当たりにしたりするのだ。思い返せば、自分は幾度か経験している。これはセクハラなのではないかと思うシーンを。その時自分は黙っていた。同僚に、こんなことがあったんですよとネガキャンをすることや、目安箱に送することはあっても、直接咎めたことは一度もなかった。そうして、私たちは泣き続ける。そう呟かれたような気がして、俺は彼女が告発などをして不特定多数の人から中傷されることは恐れるくせに、彼女がそうして泣くことは怖くないのだろうかと自らを顧みる。自分自身が分からなくなって、立っている地面がぐらつくような、三半規管的危機感が襲ってくる。自分が何をしたらいいのか分からない。どうしたら友梨奈の安寧を、どうしたら伽耶ちゃんの安寧を確保できるのか、自分には全く分からない。怖かった。でも被害者たちのそれに、自分のそれは全く及ばないのだろうと思った。
・でも、定期的に外に出て人と関わっていると、気楽さからは遠ざかって、少しずつ世間と自分は溶げ合ってしまう。できることなら、旅先で会う地元の人や、観光客同士みたいに、互いにその場限りの関係だけで人生を構成したい。だからこそ、私はインターネットの世界に没入しているのかもしれない。インスタ Twitter YouTube VTube TikTokスペース、んなソーシャルメディアを股に掛けて生きてるけど、どの世界もこの現実世界より居心地が良い。SNSは、苦手な人たちを目にせずに済むのがいい。好きな人、気になるものだけをフォローして、嫌いな人やものはミュートや興味ありませんをすれば、自分を乱すものは現れなくなる。痰を吐くおじさん、歩きタバコの臭い、スマホに向かって怒鳴り声をあげている人、扇情的な水着姿の女性を使った広告、胡散臭い成功する本の広告、痩せたい人毛をなくしたい人、賄賂不正取引不倫ゴシップゴシップ。こんな怒りと喧騒と金と性で彩色された世界に生きたい人が、本当にいるんだろうか。
外に出るとそう思う。それとも多くの人は、生まれちゃったし死ぬのもちょっとあれだからってことで、惰性で生きてるだけなんだろうか。
・ハラスメント被害者の講演会は、途中で苦しくなって見るのを止めた。落ち着いてから見ようと思っていたけど、気がついたらアーカイブも期限を過ぎてしまっていた。私の弱さはこういうところなんだろうか。でも誰だって人の苦しかった話、誰かを強烈に恨んだ、憎んだ話なんて聞きたくないんじゃないだろうか。知るべき、考えるべき、学ぶべき、こうするべき、こうしない
べき、お母さんはいつもそういうことを言っていて、その「べき」の重さに、私はずっと不感を持ってきた。人が生きる上で、「べき」なんて一つもないはずだ。そんなのは、彼らの個人的な、あるいは組織的な美意識でしかない。私は全ての「べき」から自由でありたい。もし「ベき」を設けるのであればそれは自分にとってのみの「べき」、自分以外の人には一切当てはめない「べき」にしたい。お母さんは「べき」があまりに重すぎ、強すぎることを知らないし、「ベき」を使わない人間は肩念のない風見鶏だとでも言いたげに批判する。私の念は、そういう言
念じゃないんだ。あなたには肩念に見えないような脆弱なそれこそが、私の念なんだ。それだけなのに、私の肩念が脆弱すぎるせいか伝わらない。
・大学のフェンスの向こう側から桜が枝を伸ばし、花びらが降ってくる様子に思わず目を取られていると、実は僕、花粉症じゃないんですーと彼は何か思い出したような表情で嬉しそうに言った。花粉症でないことの尊さは、花粉症になったことのある人にしか分からないよと思いながら、そうなんだいいね、と私は微笑む。
・彼女のことは、直接は知らなかった。でも、多分友達の友達で倍々に増えていたインスタアカウントで、いつの間にか相互になっていた子だった。でも、画面の中の子が今一人の男の性談のせいで死にかけているという事実がうまく理解できなかった。私はきっと半径数百メートルの中では、誰よりも性談を忌み嫌う人間だろうに、性欲により加害され、殺されかけている二年生の女の子という存在が、うまく認識できなかった。こういうところが、無性愛者が気味悪がられる所以なのかもしれない。性的指向は人間の一部分でありながら、核の部分でもあって、それが算らない人とは本質的な誤解が生じ続けてしまう。私が引きこもり始めたことに動し、特手に真由に聞き取りをして自殺未遂をした子の話を聞いたお母さんが戦うべきだと喚き立てる様子を見ながら、私はその誤解を解清する難しさを思い知った。今まで見たことがないほど興奮して、加害者を揄し罵倒し徹底的に存在を否定し呪詛の言葉を吐き続けるお母さんは、魔女のようだった。お母さんの嫌悪だけで、岡崎先生は本当に死ぬのではないかと思うほどだった。すごかった。
すごい、と思いながら私はお母さんの提案や勧めに、同意することも反論することもできま、お母さんはそのうち、そんな私を意志のない無思考な若者と見限ったようだった。
・有性愛者とや無性愛者、世界の責任を取ろうとしているお母さんのような人と何にも責任を感じない自分のような人、真由のように実際どれくらい傷ついていたのかは計り知れないけど、性的被害に平気な顔をする人と自殺するほど思い詰める人、私はあの事をきっかけに人と人との違いを考えざるを得なくなった。その違いは考えれば考えるほど悍ましく、今自分が立っている地面を揺るがし兼ねないもので、地面が揺るがされるかもしれないことに怯えているうち私は身支度をすることができなくなった。そして必然的に、外に出ることができなくなった。無性愛者が、社会不適合者になった瞬間だった。
・「そうそう。俺結構昔っから、小さい頃からこの世に生きる意味あんのかなって思ってて。捻くれとか逆張りとかじゃなくて、真っ直ぐに、純粋に考えて、この世に生きる意味あんの?って本気で思ってる」
越山くんが爽やかな微笑みを崩さず言うから、思わず笑ってしまう。すみません、お水もらえますか?爽やかな笑みを店員さんに使い回して頼んだ彼は、特に社会不適合者には見えない。
丁寧で、爽やかで、グレたりもしてなさそうだ。
「本当に?」
「うん。人生マジで楽しいことたくさんあるけど、その他諸々の嫌なこと、全部我慢してまで生きる意味あんのかなって。世界中の生きてる人たち皆に生きてる意味聞いて回っても、俺は多分どの答えにも納得いかないんじゃないかって思う。だから自分で意識して、目的とか意味とか考えないようにして、ほんやり生きてる。俺痛いのまじ無理だから、自分から死のうとかは考えないし、死なないとみたいな衝動もないし、絶望してるわけじゃないけど別に希望もなくて、これ意味あんのかなって、別になくね?って思ってる。毎日ちょっとずつ苦しくて、毎日ちょっとずつ楽しい。比率はいつも大体7:3、たまに6:4。だからいつか、きっかけっていうか、いい機会があったら、死ぬんだろうなって思う。死にたいガチ勢じゃなくて、きっかけがあれば死ぬかなガチ勢」
・何で俺はこんなに未来が現実的に見通せてしまうんだろう。何で何が起こるか分からない人生! みたいな輝きが、自分にはないんだろう。側から見ればそれなりに輝いてる高校生のはずなのに、青春青春してるだろうに、その内側ではこんなに冷めてるんだろう。
・俺には何かがあるとは思わない。母親への感謝、彼女へのかわいいな好きだなって気持ちと健全な性欲、友達にはまあまあ情もあるし、人並みの正義感もないわけじゃないし、社会とか政治への憤りだってなくもない。でもじゃあ何かあるのって言われたら特に何もないんじゃない?
って感じ。まあ、あるのって聞かれたらあるよとも言えるしないよとも言えるみたいなものくらいしかないって感じだ。でもそれをあるよって言うのはちょっと抵抗がある。あってもなくてもそんなに変わらないようなものを、あるよなんてきっぱり言い切れる?って思うとまあ別に大した「ある」ではないわけだから、「ある」よりは「ない」にしておこうかなって感じ。
・抽象の重要さと、具体に寄ることの危険性を、彼らは語り合っていた。抽象化することによって初めて人は自分自身や世界を認識することができ、具体に寄り過ぎると盲目的になってしまうという話で、最近の若い作家が具体に寄り過ぎる傾向があることに懸念を濁らす甲子哲夫に、お父さんはいくつかの若い作家のサンプルを出し、深く頷いていた。それで彼らは、俺からはあんまりその良さが分からないような古き良きなのかなんなのか、古い作家の作品を何作か挙げた。
実際その時代にそういう作品が求められてたって事実はあったんだろうし、そういう作品がウケてもいたんだろう。でもそれを安易に今の時代に当てはめるのはおかしくないか。それはなんかその文脈の中で、その界隈で、その時代を共有した人たちの内輪での「刺さるね!」だったわけで、今の時代にそれをそのまま持ってきてやっぱこれがいいよねみたいなことを言われてもそれは「別に刺さらないね!」なわけで、何でそれを現代の人にも分かりやすくするためのプレゼンとか漫画化とか要約とかもせずそのまんまこっちに押し付けようとしてくるのかがちで意味が分からない。
・例えば編集者が自宅に原稿を取りにやって来た時、窓から一枚ずつひらひらと投げ捨て拾わせたモラハラ作家がいたなんて昭和の時代にはザラにあった話だが、じゃあその作家の書いた小説の価値はそのエピソードひとつで下がるのか。人のモラルや振る舞いなんて、文化や時代の流れの中で変化していくもの。首狩族が首を狩っていたのにだって豊作や来愛、神をを知るため、など様々な意図があったし、豊作や天候のために生費を捧げる風習は世界中のあらゆる土地で自然発生的に行われていた。自分だってその時代のその風習の中に生きていれば、首を持ったり、生を捧げたり、自分が生贄になったりしただろう。そこまで極端な話でなくとも、例えば今も残る一夫多妻制などにはその土地ならではの宗教的、経済的理由がある。
自分たちが生きる時代のモラル、常識、自分が生きる国の法律などに則って全く別の文化や背景を持つ民族や人種を断罪するのは、あまりにもナンセンス。大きなパラダイムシフトが短期間に押し寄せる現代を生きているからといって、前時代を全否定してアップデートすることだけを目指していれば高みに到達できると思っている人々はあまりにも視野が狭く、そんな言説が力を持ては、ややもすれば人間という存在がこれまでとは全く違う存在、狭く弱く愚かな存在に成り果ててしまう危険性すらある。
半蔵佳子の主張は、まとめればこんな感じで、Twitterで見ている時よりもまともなことを言っている印象だった。記事中のあらゆる文章がTwitterで拡散され、彼女は主に中年以上の層から賛同を得た。でも俺からすると、狭く弱く愚かってそれこそあなたたちの価値観ですよね、俺たちはそっちからすれば狭く弱く愚かだろうけど、別に仲良くやってます、そんな古い価値観押し付けないでください老害です。で感想はおしまいだ。老人たちが手を取り合って若い人たちをバッシングして一体何になるんだとうんざりする。どうしてもうそろそろ死ぬっていうのに最後くらい大人しくしていることができないんだろう。そんなのはこれから生きていく人に任せるべきことだ。橋山美津さんの断罪は、これから先の未来への期待、このままではいけないという焦りから生じているんだろう。もちろん死んでいく人の意見はいらない黙って死ねとは思わない。でもこういう、世界のルールが変わっていってるよね、っていう前提の話に、首を突っ込んでかき乱すのはやめてもらいたい。あなたが大切に思っているものと、あなたがどうでもいいと思ってるものは、俺らにとってのそれと全然違うんだ。そんな価値観でこっちは生きていないんだ。
その前提を分かってる人は、性別も年齢も問わず口出しなんてしてこない。どうして俺らは、何の前提も共有しようとしない、自分たちの古い価値観古い常識古い前提古い言説に依存してそこに疑いすら抱かないような図太く鈍感な奴らに好き放題言われなきゃいけないんだ。
・性自認が曖昧っぽいカズマは、こういう時男か女かとか、何高とか、どうやって知り合ったのかとか、どんな人なのかとか聞かないから気が楽だ。こういう時、男?女?女なの?かわいい?背何センチくらい?可愛い系キレイ系?誰に似てる?とウザい男友達もいるし、そういう奴らといても別に平気だけど、カズマとかユウゴとかのこういう普通のやりとりができる友達といる時の方が正直気が楽だ。中学の頃から彼女が途切れなかったこととか、リコと付き合い始めて二年近くなることを自慢するつもりは毛頭ないけど、そこに余裕があることで女の子に飢えてる同級生たちと一線を画したところにいられるのは良かったなと密かに思っている。
・「お母さんて、どんな人?」
「うーん、理詰めの人。それで自分自身が理にがんじがらめになって、どうしようもなくなってる人。私も人のこと言えないけど、なんであんな面倒臭い人生を送ってるんだろうって思う。私は無性愛者だから、そもそも有性愛者の人たち皆ちょっと面倒くさそうって思ってる節もあるんだけどね」
「それは、無性有性関係ないんじゃない?性がないから単純でいられるってことでもないでしよ?」
「まあ、確かに。でもなんか、猫って毛玉吐くの大変そうだなーとか思う感じ。本人にとっては普通のことなんだろうけど、私はそもそも毛繕い文化共有してないから、なんでそんなことするんだろ、絶対もっと合理的なやり方あるよね?って思っちゃうんだけどみたいな。まあ越山くんのいう通り、逆にそっちから見たら何でそんな生き方すんのめんどくさそー、って思われるんだろうけどね」
・聞きながら、俺は父親が自分に与えてきた「反体制的であれ、反骨精神を持て、『何か』のある人間になれ」という、本や情報の与え方、何を嘲笑い何を肯定するかの線引き、俺の話に対する苛立ちや喜びみたいな僅かな態度から感じ取ってきたプレッシャーを思い出していた。もしかしたら、伽耶さんと俺は似たような家庭環境とまでは言わなくても、似たような抑圧を親から受けてきたのかもしれない。
・木戸さんは編集長になった頃かな、なってしばらくした頃かな、突然枯れたんだよ。承認欲求が完全に潰えて、枯葉になった。あちこち穴の空いた、踏めば粉々になる茶色い枯葉。この業界、じゃなくてもよくある話なのかもしれないけど、少なくともこの業界ではよくある話で、意欲的に現場仕事をしていた編集者が、四十を過ぎた頃から唐突に現場への意欲を喪失して、流れ作業的に無難に仕事をこなすようになっていく現象。多分あれは、個人が仕事を通じて世界を変えることを諦める瞬間なんじゃないかな。ここまでやってきて何も変わらなかったし、評価もさほどされないし、以前のような体力もないし、自分のこれからの人生も何となく先が見えちゃって。
アクセル全開でガチガチに仕事する、から、省エネで余生を生きていく、にスイッチが切り替わる瞬間
・私や越山くんにできるのは、せいぜいあの動画を拡散して、加害者男性を追い詰めることくらいだろう。でも、追い詰めてなんになるの?とも思う。それで加害者男性が自殺したら?やったーバンザイ?別にレイプ犯が自殺しようと私に良心の町責はないし、死ねないなら死ぬほど苦しめとは思うけど、もしかしたら加害者男性の妻とか子供もことによっては自殺するかもしれない。それで加害者を死に追いやったら、次はまた別の加害者を追い詰める?個人的にはレイプ犯はレイプした瞬間爆発でいいけど、でもそうして皆でリンチして殺してやったー!とは思えない。この間、女子供を虐待する差別主義者の男が、ヒーロー的な人に殺される勧善懲悪ストーリーの超大作映画を観たけど、観てる時スカッとして、観終えた後スカッとしていた自分にげんなりした。どんなに精巧に作られた勧善懲悪だとしても、令和を生きる私は、殺人がエンターティメントになることに耐えられないのだ。悪人が殺されてスカッとするなんて野蛮だ。何人もの教え子に強制わいせつ、強制性交をしていたあの教授だって、自殺したと聞いたらスカッとした後、やっぱりげんなりするだろう。死んで終わりって、あなたの人生すごろくですか?被害者にとっての人生は、すごろくじゃないんです。上がりとかいう概念もないんです。そう思うはずだ。
・でも越山くんの置かれた環境を考えると、越山くんにとってこれは重要な問題なのだろうとも思う。加害者が捕まればいいのか、どこまで懲らしめればいいのか、死ねばいいのか、社会的に死ねば、精神が死ねば、肉体が死ねばいいのか、それとも改心すればいいのか、自分の罪を認め償えばいいのか、でも償いって何なんだろう。懲役刑?示談金?家族やお金を失うこと?
・でもだからって、そこに異議を唱えて何になるんだろう。結局、私は絶望前提で生きてるから、だから何って感じなのかもしれない。結局、世界が変わる、人が変わると宿じていなければ、人は強い思想を持つことなんかできない。私はそう思うし、自分の周りにも何かが変わると肩じて何かに突き進んでいる人なんていないような気がする。そんな、何かを変えたことのある人、変える必然の中で生きてきた人、変わると言じられる人たちと、私は違う。結局、人は希望がなければ何もできないってことなんだろう。希望がなければそこに自分の時間や経験や労力、何一つ削ぎ落とすことはできないのだ。いつもいつも、面白い思いをするためにTkTokを開く。面白くなければ二秒でスワイプ。二秒に自分の求めているものがなければ、次にいく。YouTubeでいえば、サムネとタイトルに「面白さ」の希望がなければまず観ない。基本面白いものしか求めないTikTokとYouTube に対してすら、ここまでギブアンドテイクを求めてしまう現代人が、なんの見返りもない事柄に関して考え続けたり討論し続けたり戦い続けたりなんて不可能だ。それは偏にタイムパフォーマンスの問題で、二年を引きこもりに充てた私ですらこんな風にタイパについて考えてしまうんだから、まじでこの「で、それすると何が得なの?」は現代の病だと思う。確かにこんな狭量な考え方じゃダメだとも思う。でもそれを強要してるのはこの世界の方じゃないかとも思う。少なくとも、私のせいじゃない。
・何だよそれと越山くんは笑ったけど、カズマがうっすらと浮かべた笑みには心配が混じっているように見えた。二人がどんな関係性なのか分からないけど、きっと友達とかクラスメイトとかの枠内ではなくて、ちゃんと個人と個人として向き合ってるんだろうと思った。自分が尊敬する人、好きな人、ずっと活躍を見てきた人が亡くなって悲しい、辛い、どうして、という気持ちも、そりゃ人には色々あるよ自分たちには計り知れないものがあったんだろうよ、邪推するのはやめようぜという気持ちも分かる。両方とも、好きだからこそ、そうなるんだろう。好きというスタート地点は一緒なのに、思いが共有できないこともある、という悲しい人間の性を、私はいま目の当たりにしているのだ。
・一哉はセクハラパワハラの残存する社会を許容して、こういうものは時代と共に駆逐されていくからって、駆逐されるまでに生じるであろう被害を容認してる。私は一哉みたいな緩やかな容認派の人こそが被害を拡大させてると思ってる。そこで声を上げないことで生じる被害を週小評価してると思う
・それを同じ気持ちって言っていいんですかね。双子だって、精子と卵子が同じでも金持ちと貧人とに育てられたら、全然違う人生を歩みますよね。そんなの、種と始まりが同じでも、だからなにって感じじゃないですか。多様性の時代とか言いますけど、色々見えるようになった今、結局越えられない壁が高くそびえたってるのが分かって、これは乗り越えられないねって、皆が諦めるフェーズに入ったんじゃないかなって、俺は思います
・どうして世の中にはこうも、性加害が溢れているのだろう。世の中はあまりに浅はかで欲望に忠実なおじさんが多すぎる。本当に心から、うんざりする。自分はこんなにも無害な人間なのに、どうしてこんな自分とは無関係の加害や被害について考えながら生きていかなければならないのだろう。友梨奈の言うことも分かる。この世界の一員として生きる以上、自分は無関係、では済まされないし、自分は無関係と思う人々が事態を容認することで、加害を助長し続けてきたのだと。でも俺はこの社会を作ったことなんかない。俺は何一つ、こんな世界を作ってなんかない。こんな社会を作ったのは、上の世代、その上の世代、その上の上の世代だ。俺じゃない。そんな憤りもある。俺は生まれてこの方、誰かに迷惑をかけたことは一度もない。こんなに慎ましく生きてきたんだ。
・その時代の変化は、あなたの中に痛みとともに刻まれているの?写真週刊誌とはいえ名の知れた出版社に勤める中年男性記者が、時代が変わる必然性を感じたことが、一度でもあるの?
ハラスメント研修めんどくせーくらいのことしか感じたことないんじゃないの?なんとなく空気の変化を感じ取ってる風に見せて、話を合わせてるだけなんじゃないの?私は最近、サラリーマンっぽい男の人を見ると怒りが込み上げてくる。あなたたちはどんな抑圧にも性被害にも遭わず、道う可能性も考えず、満員電車や公衆トイレ、夜道に恐怖を抱いたこともないだろう、と。
